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漫画でデビューする その3 [還暦デビュー雑感]

いくつかある候補の内のひとつをとりあえず形になる様に取り掛かってみる。
仮の表題は『闇の閃光』。物語の舞台は仮想国家「USZ(ジパング合衆国)」なのだが、それは全てが闇の世界で成り立っている国の物語なのだ。

①世間から社会の敵として悪の烙印を押された主人公。社会から抹殺されようとした刹那、奇跡的に命を取り止め、唯一の使命を持ってこの社会に帰還した。

②社会から悪を駆逐するために日夜活躍する「少年探偵A」は窃盗犯を追いかけていて取り逃がすが、その途中で犯人を追いかける「閃光仮面」に遭遇する。

③閃光仮面は窃盗犯を捕まえてリンチをして余罪を告白させる。単なる窃盗と思われた犯人は実は政界財界ヤクザの絡んだ「東亜報幸会」の国家的事業に関わっていたのだった。

…ハチャメチャなストーリー展開で、途中からギャグ漫画に移行させようかと考え始めたが、とにかくこのまま進めればどうなるのか自分でも興味津々なのでまだまだ To be continue…である。

閃光_01.jpg

いやはや…最終回までどれだけ時間がかかるのか?面倒なものに取り組んじゃったなぁというのも正直なところだ。基本的な物語の流れが出来たら、たとえ途中ではあっても絵を描き始める。それが飽きさせずにモチベーションを維持する方法だと思うから。

タグ:円蛇丸
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肩の力を抜いて絵を描く [還暦デビュー雑感]

最近はすっかり依頼も無くなって、仕事として絵を描く事も少なくなってしまった。私にとって絵を描くという事は仕事以外の意味があったと思っていたが、歳を取った今考えてみると道楽以外の何ものでもなかった様な気がする。
絵を描いていたからこそ未来に期待を感じられたこともあった。絵を描いていたからこそ人生を見つめ自分自身を考える事が出来たのも事実だ。しかしそれでも、やはりそれは特別に崇高なものではなく、ただ単に道楽だったという様な気もする。

デリドラ魂.jpg

肩の力が抜けて来た事を感じる今日この頃である。絵を描くことに関しても少しばかり変化が出て来た。取組みの視点や作法が変わることは日常的にあることだが、スタンスが変わることはそう頻繁ではない。これが絵を人生とダブらせて付き合っている者の感覚だろうと思うが、そんな私が最近思うことがある。

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何も特別でないこと。高尚でも崇高でもなく、そして何でもなく若しかしたら価値もないこと。そしてただ、その人独りの思いがあるというだけのこと…。

ハダカの魂-e.jpg

最終的には少しの力も入れずに絵を描いて行きたいと思ってはいるが、実はその前にひとつだけ取り組んでみたい事がある。それはまずは “左手で描く”ことと、最終的に “眼を使わずに描く”こと。何故そんな事をするのかという尤もらしい理由は自分なりにあるのだが、私は生まれて4歳くらいまでは左利きだったという事もあって左にシフトチェンジして試してみたいという気が以前からあった。この課題をクリアーしたら改めて肩の力を抜こうかなと考えている。

ハダカの魂-f.jpg

 

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漫画でデビューする その2 [還暦デビュー雑感]

さて “漫画でデビューする”などと威勢よく宣言したのはいいが…時間が過ぎるとあれこれと迷いが出て来た。ページ漫画を描けるほどには気力も体力もなくなったし、四コマ一コマはテーマが違っている。自分に最も向いているのは “詩とイラスト”的なスタイルだと思っているのだが、それにはストーリー展開が構成できないので今回には適していない。
…などとあれこれ迷いながら困っている内に「形を考えるのは後回しだ」と思う様になった。特に最近思う様になったのだが、歳を取ったら考える前に行動する方が良い。そんなに残された時間は少なく考えている時間はないのだと自覚すべきでしょうね。

もうジャンルなんてどうでも良い。文章主体であっても、漫画じゃなくイラストだろうと言われても良い。描きたいものが効果的に表現できればそれで良いのだ(バカボンのパパ口調で)とにかく、ショート・ストーリーな絵物語風でネット配信できること。以前に電子書籍に興味があってかじり始めたが挫折したので、ややこしく難しい事は後回しにする。スタイルなんて何でもいいから出来る世界で形にすることが第一と決めた。
さて肝心のコンテンツでもある物語テーマは何にしようか?初めは簡単で、飽きが来る前にすんなり終わってしまうほど短い方が良い。(これは自分の性格を考えてこれまでの経験を元にしたスタートアップの心得なんです)私のアイデアノートを見ると実にたくさんのコンテンツが並んでいるのだが、そのほとんどが陽の目を見ずに埋もれている。まさに私の生き方を象徴しているような歯痒く情けないアイデアノートなのだが、いよいよこいつに光を当てる事になるのかと思うと武者震いがするが…いやいや力んではいけない。力むことはこれまで何度も経験した様に、空振り三振してやる気を失う原因のひとつでもある。

テーマはふたつあってどうするか迷っているのだが「いけない、いけない」これも挫折する原因のひとつである。迷い始めると必ずいい結果にはならない。どちらがベターか?実はどちらも良くはないのである。だから今はテーマを決めないでおこう。テーマがはっきりしないのに漫画を描き始められる訳ないと思うが、実はそうでもないのである。キャラを決めてあれこれ動かしてみるという事がテーマやストーリーを生み出すこともあるのだ。“案ずるより生むが易し”とはここでも実践される事になる。
印刷して本の形にするのかそれともデジタル加工してネット配信するのか、それによって全体の構成が違ってくるのでそんなところにも気を向けていたのだがそれが私にとっては間違いの元だと気づいた。「とにかく描いてしまえ」の気概が必要なのだ歳を取った私には…。本にして流通させるのか電子書籍でネット配信するのか、そんな事は “風に訊け”

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さあ次回はいよいよシノプシスに着手だ!

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漫画でデビューする その1 [還暦デビュー雑感]

最近、改めて漫画を描こうと思い始めている。但しこれまでとは違った尺度で今の自分の齢に相応しい、謂わばシニア作家(シルバーの方が適切かな?)としての創作漫画だ。
私が現在置かれている状況を説明するのは、くどくど長くなって誤解も生むだろうから省略するとして、とにかく子供の頃から温めていた漫画を描くという願望を満たそうと考えた。この歳で描くとなると若かった頃とは違ったものになるだろうと思うが、ただスキル的にはまったく進歩も向上もしていないため少しの不安はある。が、自己満足を満たすことも思えばまぁ良いだろう。

しかし実際に漫画をデビューさせるとなるといくつかの問題にぶち当たる。そのひとつが若者層のデバイスの変化だろう。私の様な高齢者になると漫画と云うものはペラペラと頁をめくって紙面の中に配置されたコマをたどりながらストーリーを追うというのが読書スタイルで、漫画家もそれを前提としてコマ割りやストーリー展開を構成していたものだが、どうもそれではデジタル・デバイスの漫画はマッチしないようだ。ひとコマかふたコマくらいずつサクサク進めながら、まさにデジタル式な読み方で進めて行く。読み方が違うということは物語を追ってゆくスピード感や全体の構成が違うとも云えるわけで、どちらかと言えばよりアニメの手法に近くなる感じがする。
これは数ページを使うストーリー漫画のケースで、では四コマとかひとコマ漫画の場合はどうだろうかと考えると、案外デジタルの方が効果が出せる様な気がした。コマのつなぎ方や繋がりの関係性が違うからだ。ストーリー漫画よりは理屈を遥かに超えているかも知れない。理屈抜きの漫画ならデジタルが向いているのかな。

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そんな訳で、私もデジタル漫画でデビューする事を日夜模索しているので、これから時々その進捗状況を報告してみたいと考えている…のだが、果たしてどんな展開になるのだろうか?

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二極分化の世界 [還暦デビュー雑感]

我が国では様々な分野で二極分化が進んでいる。そして高齢者のライフスタイルも例外ではなく、悠々自適もあれば未だに生活費を稼ぐために労働している者もいる。誰が音頭を取っているのか知らないが、世の中は表面的にはスマートで美しい体裁に覆われて、泥臭くてダサい暮らしや生き方は見えないところに追いやられている様だ。追いやられたというのは裏側に追いやられた訳で、知りたくもない現実は見えない様にしてしっかり存在している。

還暦の身の振り方を語ったり思索を示したりしてもそれは飽くまでも自己満足で、実際にはそんな言葉は誰の思いにも届かないというのが現実だ。もうこの歳になれば各々が自分なりの生き方を決めていて、他人があれこれ言ってもそう簡単に自己の考えをひっくり返す事はない。それでいいのだと思う反面、残された時間を同じ過ちを繰り返して生きる事に合点のいかない不条理を感じる。
あきらかに貧富によって条件が違っていて、高齢者を一概に同列にして語れない事が多いのだが“貧すれば鈍する”という事は事実の様に思える。
この国は歴史的にある時代から(たぶん江戸時代から明治にかけて)“お上(かみ)にぶら下がって生きる”DNAが受け継がれて来た。そのために二極分化が顕著になってもそれをひっくり返す機運は生まれない“穏やかで不甲斐ない気質”の高齢者が増えてしまっている。本来なら間違った固定観念を刷新して教育改革の音頭を取るのはそれ相当に歳を経た年配者の役目である筈なのだが、残念ながら我が国では“物言わぬ高齢者”が殆んどのようだ。

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残念な事に今日の時代に打ち立てられた二極分化は、次の若い世代が中心となる時代に引き継がれてゆきそうだ。生まれながらの格差は時間を戻すことも出来ずその延長を受け入れるしかないとすれば、二極の離反と葛藤こそが歴史を作ってゆくことになるのだろう。
時の力に流されて、時には反発し時には同調し、自分の意思のままには生きれない事を知ったときには残された自由の時間は僅かしか残っていない。
そんなものなのだこの世というやつは。今ごろ気づいたところで逆転サヨナラの大穴狙いなんて幻想で、全てに於いて“時すでに遅し”なのである。だから我々は後悔の念に生きるよりも、唯一の選択に全力を尽くすしかないのである。

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高齢者の意識 [還暦デビュー雑感]

知人がSNSで“衰えたと思ったら下降線をたどる。50,60まだヒヨコ、70,80伸び盛り、90越えたら一人前”と言って私を勇気づけてくれていたのだが、少し戸惑いを感じた。
勿論そうやって言ってくれる気持ちは有り難いのだが、この歳になって「私はまだまだ若い」という気持ちを持つことが最善の在り方と言えるのだろうか?
気持ちを萎えさせず、若々しい心根で生きることには否定しない。いたずらに過去に執着したり愚痴をこぼしながら生きているよりは、前向きな気持ちで清々しい。ただ、それだけが高齢者の前向きな生き方とは限らないのではないだろうか。そんな生き方の出来ない人だっている訳だから。

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「高齢者であることの自覚」 これが一番大切なのではないかと思う様になった。
世の中には“旬”というものがある。時代の中枢として働き活動し創造してゆく層があって、単純に言ってしまえば高齢者はもうその層からは外れている。ある意味で社会の“無用の長物”とも見られがちだ。確かに社会を動かし形成する第一線からは外れているだろう。しかし、それでも視点を変えれば何かの存在価値は見つかる筈だ。…と、こんな事を言っている私だから周りの同世代の人たちからは少しズレていると言われるのだろう。まるで世の中に通用しなくなったように自分を卑下しているかのように聞こえるのかも知れない。
これまでの延長線上で同じ様に変わらぬ発想で生きていれば、若い世代のお荷物でしかないという事を何故自覚できないのだろうかと思う。それを自覚したうえで共存できる自立を考える発想を持つ。
高齢者の私たちこそが、前例のない新しい生き方を創り上げねばならない筈なのに。

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歳を取ってはみたものの… [還暦デビュー雑感]

五年前、平成26年に気持ちを綴った文の欠片を見つけた。見方によれば現在の私は以前より堕落したようにも思える。以下に当時のママで記してみる。
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人生を生きることの意味

私にとって、人生を生きる事の意味は

「作品を作り上げるためのものであった」と気づいた事である。

 

常に問い続けてきたのは、生きる事の答えを求めていたからである。

迷いもあり、間違いも犯してきたが、それらの全てが

作品を作り上げるための試練であった。

 

求め続ける限り、生き続けることになる。

問い続ける限り、生き続けることになる。

迷いも間違いも恐れるに値せず

歩み続けている事の中に、価値が発見できる。

 

その意味とは…価値を発見すること。

価値の意識の中に見つけることが出来る。


歳をとってはみたものの…それほど進歩していない自分の心構えに気がついた。いや、進歩どころか退化かな?とにかくそんなに声高に言うほどの自己満足でもない。
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『ボケたくらいが丁度いい』

最近どうも頭が明晰でない。しかし考えようによっては、余計な事に囚われず多少の失敗にも恐れない、いい加減な生き方が実践できて良いのではないだろうか?

還暦という節目を通過した者にとっては、生き直しの良い機会に違いない。


あまり自虐的になってはいけないのだが、物の見方の問題でもある。私のよく言う「ネガティブ・ケイパビリティ」という視点がここにもありそうだ

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続・円のイメージ~私の還暦考 [還暦デビュー雑感]

「円」には完成された形のイメージがある。「三角形」は理論的バランスのとれた最良の形だが「円」となるとそれらを超えた別の視点を感じる。
「還暦の視座」という話しの中で円を持ち出したのだが、円の中心に座を構えるとそこから360°の視界が広がり、どれを取っても正解という考え方に至る。つまりものの見方は見る人の人数分だけ見方がありそのどれもが正しいという事だ。その正しさとは一体どういうことだろうか?10人いれば10通りの正解とはひとつを求める者にしてみればどこにも正解がないとも言える。全てを包括しているものは全てから自由であり全てから拘束されていないとも言えるだろう。

ところで、「円」の中心とは「無」である。物事を突き詰めて深く進んでゆくと到達するのは“無という答え”である。ブラックホールを例えるまでもなく、台風を例にとってみると良い。周囲は強い風が吹いていて移動しているけれど、その中心は何故か無風状態に近い。台風が近づき強風にさらされ戦々恐々としていても、そこを乗り越えれば無風状態がやって来る。コースを避けながら逃げるのも良いけれど、確実にいつか過ぎ去るというのも事実である。円の中心に近づけば近づく程“無風状態”なのだ。
元は点から始まりそれが膨張して宇宙全体に広がる…一体この「円」の正体とは何であろうか?

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最近、自分の思いを語る漫画(or 絵物語)を描こうと思い始めた。ジャンルも定めにくくて方法も一貫していない。それでも何とか形にしたいのなら、常識にとらわれず自分勝手に発表するしかない、そう思い始めている。多分この円にまつわる考えが表われる事だろう。
還暦の視座として「円」を取り上げてみたが、実は自分の思いを遥かに超えるものがそこには在ったようだ。

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改めて “還暦” のタイトルを考える [還暦デビュー雑感]

「還暦学講座」「還暦デビュー」「還暦の荒野…」と“還暦”をコンセプトにしたタイトルを付けてこのブログを続けて来たけれど、改めて私にとっての“還暦”の意味を確認しておきたいと考えた。
本来の還暦の意味とは違っているとは思うが、私の中での還暦とは人生をひと通り生きて、ある意味で終着したという気持ちを持つことでもある。

今こんな心持ちでいる人がどれだけいるのか分からないが、還暦を迎えた時点で人生が一度終わった事にして総括をするという事である。
この総括はこれまでの自分との完全な決別とも言える。ある意味で“人生の断捨離”で未練を捨てて全てを一旦廃棄する感覚とでも言おうか…。新しい次元で生き直すためにこれまでの価値観や固定観念を“捨て去る努力”をする事はそう簡単な事ではなくもちろん“理想”である事は承知なのだが。

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この世に生まれてからこれまで、多くの事を教えられたり身に沁みたりして生きてきている。しかし考えてみればその多くは私を取り巻く“社会の総意”でもあった様な気がする。いつの間にか私は周りから与えられる知識や情報に従って生きていたのだった。
アクションを起こして得られる結果も一定の社会的基準に沿ったものだ。現実的にはそれは正しいのだが、それが既成概念によるものなら100%の正解とは言えないのではないだろうか。

還暦の先にあるもの…それは解脱の後の“魂の生き方”と言うのは大袈裟だろうか?

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私の還暦考~円のイメージ [還暦デビュー雑感]

還暦という言葉にこだわっている様に思われそうですがそれ程でもないです。ただ、還暦という齢と概念が私の探していた解釈に近いものだったので取り入れる事にしたのです。
私は物事を説明するときには、有利不利に関係なく本来の姿を正直な言葉で伝えたいという考えを持っています。たとえ話とか話法という演出も行いますが、本当は“有りのままを伝えたい”というのが正直な気持ちです。そして“人生如何に生きるべきか”という問いに答えようとしたときに適切な言葉として頭に浮かんだのが「還暦の視座」だったのです。

いつからか私は「円」というものに様々な答えを見出して心の中に留める様になりました。確か始まりは「tour(旅)」という言葉は回るという言葉が語源となっていると聞いたのが始まりだった様に思います。ぐるりと一周巡って帰って来る「旅」の姿を「円」になぞらえる説明に納得した覚えがあります。
次に「円」というものに答を見出したのは合気道に専念していた時代です。ひと言で言い尽くせないですが、合気道の技の流れ・振る舞いは円運動を基本にしているという発見が私のものの考え方を一変させました。「柔よく剛を制す」という言葉が昔からありましたがそれ以上に深い真理を感じたのが円を基軸とした万物のバランス感覚でした。(何言ってるのか分かんないんですけど…苦笑)“攻撃のパワーを緩和させてバランスの中に取り込んで流し去ってやる”そんなところでしょうか?(ますます分からない…大苦笑)

円座.jpg

「旅・人生・合気道」これらのコンセプトが融合し合って現われたのが「円の存在」という考え方でした。“円は包み込みでありバランスであり存在の肯定である”という理念の基から、物事を考える時の基本的な視座のような感覚で取り入れると、まるで様々な固定観念から脱却して次元を超えたトリップ感覚さえ得られる様な気がしました。
あまり非論理的な話しが過ぎると、ちょっと危ない似非教義のような匂いがしてきそうなのでこの辺にしますが、人生を行き着いた人の次のステージは「円座」から始まるのではないだろうか…などと勝手な推測で未来を眺めています。

<未了>

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