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たそがれを謳う [還暦の荒野をめざして]

人生という長いようで短い一生をどの様に受け止めるか。年も明けた今日この頃、終活ではないけれどそんなスタンスでものを考える様になった。
とっくに還暦も過ぎた私は、はっきり言って人生の黄昏どきに立っている。これは間違いのない事実である。世の中にはその自覚が無くて “若さに執着した生き方”にしがみついているアンチ・シニア群が多いようだが、果たしてその行く先はどうかなと考える。

年を経て老いた者にしか語れぬ事がある。人生には若いが故の真価もあれば、老いたる故の真価もある。私のこれから先は、己の「黄昏道」を歩み極めることである。酸いも甘いも噛みしめて彼岸に立ってものを見ることでもある。
視点を変えれば、まだまだこれから希望に満ちた未来が待っている。これまでを卒業して新しい冒険が始まる予感がしている。

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明日に向かうための断捨離 [還暦の荒野をめざして]

50代に入った頃に思った。「何だか身の丈以上の重荷を背負っているなぁ…」自分の力量では抱えきれない重荷が我が身を押しつぶした気がしていた。今更そんな事に気がついても遅すぎてどうすることも出来ずにそのまま突っ走った人生だったが、古希も近づいたこの頃ではさすがに生き方を省みようと思う様になった。
そして気づいたのが前向きな明日に向かっての断捨離だった。単に物の整理だけでなく自分の背負っている不要なものを処理する、いわば垢を落とすという感じでサッパリとして生き直すことだ。自身にとって身分不相応と分かったものは未練を残さずキッパリと捨てる。「身分不相応」「未練を残さない」がキーポイントなのだが、これがなかなか難しい。例えば、もう自分とは関わりも無くなった内容の書籍などは処分すべきなのだがそれが出来ない。何らかの思い入れがあるのだが、もうそんなものは役に立たないと分かっていても思い切って捨てることが出来ないでいる。その本を置いておくことで人生の記憶の中にしまっておきたい何かがあるのだ。

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書籍に限らず一時的にマニアとしてコレクションしたものも捨てられないアイテムに属する。それぞれに愛しい思い出が刻み込まれているがこれも思い切って捨ててゆこう。決してストイックな気持ちで言っているわけではなく、自分を潰す原因となるものを断ち切ってゆこうとする苦渋の決断なのだ。

過去の思い出は素晴らしい。そして様々なアイテムも私のこれまでの人生を彩ってくれたと感謝している。しかし過去は過去であって、それを引きずる事が賢明とは限らない。人生はまさに選択の連続だと思うが、だからこそ身の丈に余る負荷は潔く捨ててゆかねばならない年齢に来ていると考える。還暦を過ぎての断捨離は人生哲学の総括でもある。

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榎本武揚・考 その3 [還暦の荒野をめざして]

まず最初にお断りしておかなければならないのは、ここで語られる「榎本武揚」は私の偶像である。史実はもっと違っているかも知れないが、私にとって「榎本武揚」は没落の侍武士たちを率いて新天地をめざした誇らしげな人物である。幕末のヒーローとして私が若かったころ興味があったのは坂本龍馬であったが、四十代に差しかかった頃に榎本武揚という人物を知った。そして歳を取るごとにそれは興味深い関心事に変わっていった。
徳川幕府の崩壊と明治新政府の誕生は江戸城に仕える侍たちを浪人にしてしまう一大事だった。今で言うなら一流企業のサラリーマンがリストラで総失業する状況だろう。榎本武揚は生き場を失った侍たちに鼓舞しながら新天地・蝦夷開墾の夢を掲げて函館に渡った。
結局、戊辰戦争で勝利を得た新政府軍に追われて新選組・土方歳三と共に最後の徳川武士たちは箱館戦争で五稜郭にて散ってゆくのだが、明治新政府の黒田清隆にその慧眼と人間性を買われて自刃を止められた榎本武揚は新政府の元で夢であった蝦夷開拓の指揮を執るようになった。

夢や理想と云うものは時には形を変えて実現する事もある様だ。この武揚の場合でもまさか自分が新政府の一員となって北海道開拓のミッションを担うとは思ってもみなかっただろう。もしも彼が飽くまでも幕閣としての仁義を貫きたいと考えていたら、北の新天地への夢は実現しなかった。

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幕末・維新の時代は傑出した英雄たちが理想を掲げて生き切った時代でもあった。世の中を良い方向に変えて行こうとする若者が時代の原動力となっている様相で、実際にはその裏で相変わらず利権を守ろうと腐心する老獪な保守権力が黒幕として操る姿も見え隠れはするが、それでもひとときの夢を見させてくれる純粋な若い力の台頭を感じさせてくれる時代でもあった。
そんな新しい価値観をめざしている時代の中で、朽ちてゆく者たちの行き場を考え北海道開拓に夢を掲げようとしていた榎本武揚の義侠心に、私は今の時代の為政者が忘れている何かを見い出している。

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終わりの始まり~価値観の転換 [還暦の荒野をめざして]

少しずつなのでなかなか大きな変化に気づく事も少ないが、世界は根本的なところで変わろうとしている様だ。変わるには変わるのだが…いつか来た道に戻るといえば戻るとも云える。古いとか新しいとか、進歩とか後退とか表現するよりもシフトチェンジと考えた方が適切なのではないだろうか。
人間の悠久の歴史の中では全く新しいものなんて無いと思っている。何度も変化して試行錯誤しながら人類は生き続けているからだ。だから私はこう考える、“今という時代に生まれて今という時代を生きているに過ぎない”と。もっと本質的な事も言えるのだがそれを言っては身も蓋もないのでソフトな表現にとどめて置こう。とにかく使命を持って生きるにしても、幸福を求めて生きるにしても、他人を蹴落として生きるにしても、差別し罵倒して生きるにしても、恨みつらみで生きるにしても、快楽を求めて生きるにしても、自虐的に生きるにしても… “今という状況を生きている。命を費やして生きている”という事に違いはない。

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そして時代の空気と価値観の転換が起ころうとしている。フランス革命やロシア革命はちょっと大袈裟だが、わが国でも明治維新や天皇が “人間宣言”をされた戦後などは庶民の暮らしのレベルに於いても未曽有の大転換だったに違いない。新しい時代の選択が良かったか悪かったのかは全て後付けの評論で、良くも悪くもその選択が必然だったというのが事実なのだろう。
新型コロナウィルスの登場によって先進国である我が国は、社会システムの発想の転換を求められるようになった。これまでの社会運営の考え方の行き詰まりを現実に見たからだ。これまで言ってきた「サステナビリティ:継続的な進歩」が口先だけのお題目だった事を実感させられたが、それが全くの無意味な発想だったとは思われない。改めてサステナビリティの本来の姿を模索し探し当てる努力を始めなければならない様に思う。
例えば “高齢者を活かす”という立場で考えれば、これからの社会の新しいコンセプトは “世代間の連携”ではないだろうか?経済成長やらマーケティングやらの思考回路は一旦遮断して、次に来る価値体系を考える必要がある。そういった意味では、戦後の高度成長からバブル崩壊までを突っ走った高齢者世代のものの考え方を終わらせて、今の20~30代を中心とした世代の求める価値観で構造改革をしていった方が次世代にふさわしいものが見つかると思われる。高齢者世代は自分たちが社会から手を引っ張ってもらえる様な存在になること、そのためには若い世代を生かせるような機会を提供することが大事なのだろう。持っているものを手放して次世代に託すという生き方が、たぶん必要なんだろうと思う。

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時代の変化、流れを見ているとつくづく「歳を取ったなぁ」と思う。かつては時代が変わることに対して肯定的積極派だったのだが、今では反対こそしないものの懐疑派になってしまった。これは単に価値観の変化について生きにくくなった為だろう。自分の生きてきた時代の価値観がいつまでも不変で在り続けるとは思っていないが、かと言って変わり切った尺度に合わせようとすることにも無理がある。
残念ながら、はっきり言ってこれからの時代に私たち高齢者は無用の存在になろうとしている。だからこそ高齢者はそれぞれが存在の意義を自覚して新次元の荒野をめざさなければならないと思っているのだ。

to be coutinued...

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自分の中の「負」を見つめる [還暦の荒野をめざして]

言葉に限らないが、ひとつの物事でさえも複数の側面があり、どの角度から見るかによって意見や評価は様々である。だからネットで不確定多数に向かって何かを語るときは“誤解される事を前提”に語らねばならないだろう。しかし、かと言ってどうせ分からないからと投げやりな気持ちで意見を言っていては聞く方に対して失礼にあたり相手を馬鹿にしている事になる。伝わりにくい事を覚悟でそれでも一心に語る…まぁそれが私見を語る者の本来の姿なのだろう。

と、長い前置きをした後で唐突に自分の中にある「負」の部分にスポットを当てる。
自分の中にある「負」を発見するという事はどういう事かと云えば、何か不安や不満に思っている事があればそれは自分自身に原因があるという事を自覚することだ。悪しきことの原因は自分の中にあるという事で、これを自覚していれば間違った道を進むこと無く模索でいたずらに時間を取らない。「負」とは“負う”ことであり、それは聖書で云うところの十字架の様なものだ。逃れたいけれど逃れられない宿命の様なものと言い換えることも出来る。そしてそれの持つもうひとつの側面は「罪」の部分なのである。
私たちは生まれながらにして“罪悪感となる要素”を持っている。キリスト教で云うところの“原罪意識”というもので、西洋文化の根底に流れるもののひとつである。これが日本の文化では“恥を知る”ということになって、私たちの社会の文化でもあった。恥を知ることと“卑下する”ことは違っていて、卑屈な者は「恥」を誤魔化そうとして虚勢を張るというのが日本人の中によく見られる姿でもある。
強がらず卑下もせず、卑屈にならず堂々と自分の思う処を語るというのは意外と難しいものであり、先に云った誤解される事を恐れず敢えて誤解も曲解も承知の上で語るというからには何かそこに信念のようなものが無ければ出来ることではない。昨今、SNSやバーチャル・コミュニティに於いてネットの威を借りて暴言を吐く“似非評論家”が多いが、これも自分の「負」を自覚出来ていないための愚かしさなのだろう。

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当「還暦デビュー・ブログ」に於いては基本的に自分と同年代の人たちを想定して意見を語っていて、若い人たちに対しては私はもっと寛容なんですが(苦笑)長く生きて来て歳をとって積もり積もった垢を晒しているわけなんです。これは謝罪でも何でもなく、ただ私は若い世代に対しては何のサジェスチョンもするつもりは無いという事なんです。私が現役だった頃にある人から教わった事があります。「人に対して何かを指導しようなんて思ってはいけない。自分の子供に対しても然り。指導するのではなくて、生の情報を提供して後は相手の判断に委ねるというのが正しい在り方なのだ」
若い人たちに対してはそう在りたいと思う。自分の背負っている「罪」の部分は飽くまでも自分と同世代の中で取り組んでゆくべきでしょう。

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夢は荒野を駆け巡る [還暦の荒野をめざして]

芭蕉のことを考えていた。“伊賀の忍者説”というのもあって真偽のほどは分からないが、人生を旅することに捧げて野ざらしを覚悟し、晩年に於いて詠んだ「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という俳句には心打たれるものがある。
一種の表現者として人生を全うする姿は、真似る事は難しいが共感するところがある。何かひとつのことに信念を傾けて取り組み全うする、そういった生き方に残りの時間が少なくなった私には惹かれるものがある。最後まで一線に在り続けることは難しいが、生涯現役で生きる気概は持つことが出来る。

還暦の意味、還暦後の生き方、この数年はそういったことを考えてきた。そして「下山の思想」とか「ネガティブ・ケイパビリティ」とか「新次元からの視点」とか、様々な思索を重ねて来たが、もうひとつの考えを持つに至った。
それは、生命の灯が燃え続ける限り夢を照らし続けるという事である。その夢が幻想であるか錯覚であるか疑う事は人生の真意ではない。一生叶わぬ夢であっても信念を持って求め続ける事がその人の誠の心意気だろう。
臨終の際に於いても明日を夢見て生命の灯が消えゆくのを感じ続ける…「夢は荒野を駆け巡る」そんな言葉を遥か時代を越えた芭蕉の生き方に重ね合わせた。

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時代の流れに沿ってゆく [還暦の荒野をめざして]

揺るぎない生き方を会得していれば良いのだが、残念ながら老いても未だ至らない。「少年老い易く学成り難し」とは昔の賢者の言葉で、個々の単語の意味・ニュアンスは今とは変わっているところもあるが、人間なんていくつになっても大して賢くもならないものなのだ。

最近、高齢者である私は世間との付き合い方が大きく変わって来た事に気がついた。これまでは歳が往ったらそれに応じて無理をせず、新しい事よりも慣れ親しんだ古い習慣で生きる方が良いと思って来たのだが…。どうやらそれは思い違いらしい。それは気持ちがかたくなで頑固になる前兆かも知れないと思ったからだ。
確かに世の中も私の周辺も、周りの環境はことごとく変わっている。表層的な事ばかりでなく根本的な部分にまで及んで、果たしてこれで良いのかとさえ思ったりもするが、それこそ世の常なのだ。流れゆく時をどう生きるかと云うのはいつの時代でも老いたる者の直面する問題で、そうやって一生を終えるというのも人生の一部分なのである。
古きに心を置きながら懐かしむのも良いだろう。それで癒されるのならそれも良い。しかしそれは一種の“ひきこもり”のようなもので自分を完結させて無事に生きるという方針なのだろう。片や新しい事を取り入れて積極的に前を向いて進むという生き方をめざす者もいるが、これはこれで大変ではある。体力も能力も確実に衰えている中で、更に新しいものを取り入れようとするのだから、時には気持ちと行動がバラバラになって途方に暮れる事もありそうだ。

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いずれにしても歳の往った者はそれなりの時を過ごすことになるのだが、どうしても逃れることの出来ない世の中の流れなら、その中に入り込んで意識して思いっきり付き合うのも一興かも知れないと思う様になった。逆らう事に疲れたわけではないが、逆らう事が自己主張という訳でもないだろうと思ったからだ。“老いては子に従え”という言葉に納得がいかず逆らう事で自分を取り戻すという考えだったが、そんな力んだ生き方も何か違う様な気がする。日々何らかの糧を得ようと思えば世の中と付き合っていかなければ難しい。充分な資産でもあればそれを食いつぶして生き存える事も出来るだろうが、普通の一般人ならそんな事は無理である。人間は結局、好きとか嫌いとかの“情”ではなく、“定め”として他人と関わりながら時代の流れに沿って生きる事が原則なのだろう。そして社会と付き合って生きるという事は、社会の進歩とも足並みを多少なりとも合わせなければならない事を意味している。いつまでも慣れ親しんだ旧態に固執しているわけにもいかず、新しいシステムや約束事を受け入れていかなければならないようだ。

AIの進歩によって人の働き方や生活インフラ、キャッシュレス化などこれから起こるであろう様々なイノベーションが語られているが、“人生100年計画”など政府のスローガンに踊らされるのは嫌だが、踊る阿呆に見る阿呆ならば踊る事も選択肢のひとつとして考えねばなるまい。

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脱走軍艦~榎本武揚・考 再び [還暦の荒野をめざして]

時代が移り自分たちの信奉して来た価値観が意味を持たなくなった時、それでも生きてゆかねばならない不器用な時代のお荷物はどのように先を見定めれば良いのか?榎本武揚という人物が滅びゆく幕府の中で懸命に“パラダイム転換を試みた生き様”は高齢者の私に勇気とヒントを与えてくれる。
「脱走軍艦」と呼ばれて新天地を求めて彷徨った榎本武揚ら一行は北の大地・蝦夷に到着した。新選組から土方歳三を加えた最後の幕僚として、札幌・五稜郭で頼るもののない壮絶な戦いを繰り広げたが勝敗は既に決していた。振り返ってみれば勝てることなど考えてもいなかった様に思える。生き永らえる事よりも、今の自分たちに悔いのない死に場所を探していたのかも知れない。君主に仕え我が身よりも家の名を第一に考えた当時の侍たちの心情など、今に生きる私たちに理解できる筈はないだろうけれど、それでも自分たちの生き様に価値を見出せずにいる事は耐え難かったはずだ。

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今の日本の高齢者問題に置き換えて考えてみれば、それは目の前の生きがいや目標を見失った高齢者たちの姿に置き換えることが出来る。すべてが間違いなく正しかったとは言えないだろうけれど、これまで信じ続けて来た信条の様なものを時代の変化と共に簡単に覆すことは難しいものだ。時代の潮流が変わったと云えばそれまでなのだが、戦いに敗れた敗戦国民の様にさっさと新しいご主人の意図に従うには、高齢者たちは歳を取り過ぎている。
自業自得・自己責任…確かに一理はあるのだが、その様に仕向けた“時代の権力”=裏で笑っているものたちにも落とし前をつけてもらわなければならない。

現代の高齢者たちはスマートになったように思われているが果たしてそうだろうか?そうやってうまく担がれてお調子者にされている“若い”高齢者たちこそが時代を読み間違わせる一番の原因かもしれない。
普通に考えれば高齢者は社会の一線で役立つものではない。役に立たないと分かった上でどう生きれば良いのかを指し示すのが指導者の役目ではないだろうか。そういった意味では今の世の中で時代をまとめる真のリーダーを見つけることは難しいのかも知れない。

現代に榎本武揚のような人物が居ればどの様に考えるだろうか?大勢を率いて「脱走軍艦」の舵を何処に向かって切ってゆくだろうか?いやそれ以前に、私たちは「脱走軍艦」に乗船する資格があるのだろうか?

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還暦新時代を夢想する [還暦の荒野をめざして]

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「下山の思想」という考えも還暦を経たその後の生き方のひとつとして、原点回帰の形の一種と理解して認めている。しかしそれと同時に、これまで飛び込めなかった若しくは避けてきた別次元の発想に飛び込んでみるのもどうだろうかと思う様にもなった。何故なら教え込まれた常識の枠や世間の眼、周りの空気から離脱して解放された自由な赤心の私になる事が本来の“還暦の意義”なのだからだ。

「SDGs」という新しい概念の言葉を聞いて、未来に夢を託す道もある事を発見した。まだ始まったばかりでこれから二、三年の内に少しずつ浸透してゆくと思われる言葉なのだが “持続的な到達をめざす開発目標”とでも捉えれば良いだろうか、閉塞感を乗り越えるための新しい指針として国連では環境や就労に関する17のガイドラインを提唱している。
還暦の年月を経て辿り着いた人生の先に閉塞感を感じるようであれば、視点を変えて新たな荒野に顔を向けてみる勇気も必要かも知れない。人生の終末に来てまだ未知への挑戦をするのか?と呆れられるかも知れないが、生命の実感はある意味で「恐れと緊張」の中から生まれるものの様な気もしている。

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還暦を経た者としての個人的な発想なのだが、これまで認められなかった常識を覆すような「生き場」(こんな言葉は無いです。造語です。)を創造する活動をしてみたいと思う様になった。諸外国にはそれぞれ独自の文化や価値観があって結構なのだが、日本人には“老後”というメンタリティがあって、どうしても閉ざされた感じがあるように思える。
悠々自適に生きられる恵まれた環境の人とは違って、誰もが生きられるもっと従来の価値観から自由に解放された様な、そんな社会空間があってもいいのではないか?その社会空間とは現実社会に於ける地位や場所とは限らず、各人の精神的な部分であっても構わない。つまり疎外感を持たずに、求められている存在としての自己を感じる日常の事なのだ。

"No one will be left behind."という言葉を見つけてまさしくこれは私の探していたコンセプトのキーワードだと思った。「誰ひとり取り残さない」という理念が社会的弱者に位置付けられた高齢者やハンディキャップの人たちに勇気を与えるものだと思う。もちろん自分自身のためではあるのだが、残された人生に於いて取り組むテーマとして掲げようと思って名付けた活動の名は「NoLB(略してノルブ)」
還暦からの“夢想的で冒険的で創造的な活動”を表わす言葉として『NoLB』というコンセプトを投げ掛けてゆこうと…夢想している。

 

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次世代万博のテーマ [還暦の荒野をめざして]

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「人類の進歩と調和」…これは1970年・大阪万博のメインテーマで当時の私は高校生だった。まだまだ世界には未知なる希望と期待感が溢れていて、夢見心地な時代でもあった。
そして今回、2025年の万国博が55年ぶりの大阪に決まって日本中が湧いている。私はすっかり年老いて、もはや未来に向かって何かを希求したり提言したりする立場ではなくなっているように思っていたのだが…。

今世紀の万博は何をテーマに掲げるのだろう?それを考えた時にふと頭を過ぎったものがあった。
21世紀の人類はきっと月世界を初めとして惑星移住も視野に入れながら宇宙に飛び出す事だろう。そして地球規模では捉え切れない広がりを持った視点と発想のパラダイム転換を求める事だろう。しかしそれと同時に先進国と言われる国々の多くは高齢化社会を迎えて、新しい生き方の模索が始まる事だろう。かつて20世紀中頃イギリス・ロンドンが老人大国の都市と称されたものだったが、現在では日本が先進的な長寿大国として世界に名を馳せている。そこで我が国は顕著な高齢先進国の代表として、高齢化社会の生き方を世界に向けて問いかけるプレゼンテーターとなる。
宇宙開発に向けた若々しいチャレンジ精神と並行して、増え続ける高齢者人口への処遇が21世紀の人類の課題として取り上げられても良いかも知れない。未来に向かって若者たちは新しい宇宙的視野を拡げてゆくだろうけれど、高齢者たちは人生を全うする意味においても与えられた条件でこの地球を新たな荒野として取り組んで行かなければならない。

次世代万博のテーマは果たしてどういう展開になるのだろう?我々はどんな未来を描こうとしているのだろう?そして高齢者の向かう未来には…

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