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感覚で捉えることこそ最も正確と見極めたり [還暦学講座:第二部]

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65歳を定年としていた時代にはそれ以上の歳を高齢者としていたが、最近ではそれもハッキリしなくなってきたようだ。一体幾つからを高齢者とするのだろう?還暦というけじめもあまり意味をなさずになってきて、それがどうしたという世の中になってゆくだろう。
しかしそれにしても確かに人は歳を取ってゆき、歳を取る事でそれまでとの違いを経験する事になる。それは自分自身の明らかな衰えであり、時代とのズレである。何が間違っているとか何が悪いとかいう事ではなく、ただ単に時代の感覚からズレて社会からボイコットされるという事だ。これまでの老人たちがそうであったように、これからの高齢者も例外ではないのだろう。
今の時代的基準を通常な判断として見れば、高齢者たちの持つ基準はどこかお払い箱の価値基準になってしまっている。若い頃に言っていた正論と思われた事柄もその殆どが陳腐化されてもはや死語と化した様だ。だからと言ってこれまで持ちつづけて来た信条を捨てて簡単には寝返れないし、仮にそうしたと思っていても出来ていないのが本当のところだろう。表面的な変わり身は出来ても、ものの考え方の根幹になる部分はそう簡単には代えられないものなのだ。今の自分に固執せず変えられるところは変わる努力はしてみよう。しかしマスコミや周りの世論に負い目を受けず自分の誇りは保ちたいと考えるなら、ひっそりと心の中で自分の感性を守る努力をしよう。

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かつては歳の往った者は一線から去り、自分の信条を主張しないというのが “美意識を持った生き方”だった様に思う。しかし最近ではそれは過去の封建社会の考えであり、人間性主体を謳う理性的な考えではない様に思われている。時代は進化して過去の不合理を正し、人としての尊厳と権利を主張する世の中を人々は支持しているというが…本当にそうだろうか?一般に人はそんな理屈と高い見識を持って日々生きているだろうか?それが理想であったとしてもその実現に努力を重ねているだろうか?
言っている事は正しいのだがそれは予定調和の建て前であって、実際の行動にはなかなか現われて来ないお題目である事が多い。ハッキリ言ってしまえば、マーケティングの視点から見ても年寄りの言葉など役に立たないというのが時代の本音であり、それは当然社会の所々に反映される現象とも言える。

さてそこで、私たち高齢者はどういう気持ちで生きれば快適な生活を送れるのだろうか…。快適といえる感覚は人それぞれ十人十色なのだが、私は自分の思いの丈を語れる環境に暮らすことが自負心を持ち自分を貶めない生き方であり、それがストレスのない快適な生き方に通じる様に思える。人々との交流も良し、職場や酒場でも良し、ブログやSNSを通じてでも良し。自分の心情を思いのままに吐露できる場こそが時代にはじかれた高齢者には何よりの薬と言えるだろう。
時代の圧力に屈せず、自分を偽らずに自身を語るとき高齢者である私は堂々と生きる快適な気分を味わえる。そのためには「自分の感性を大切にして感覚で捉えること」だと思う。時代の流れから過ぎ去った自分の感性を何にも邪魔されず信じ続けることが、日々書き換えられる理屈を越えて自分の人生を完成させることの様に思える。

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還暦を経た者が「学ぶ」意味とは [還暦学講座:第二部]

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それなりに人生経験も積み還暦という節目を過ぎた者にとって “学ぶ”とはどういう事なのか考えてみたいと思います。
私の仲間の中には、この歳になって今さら学んで修得して何になるのかといった意見を持つ者もいます。そうかと言えば、いくつになっても自分を磨き発見と向上に精を出すことは良い事だという者もいます。どちらの言っている事も間違いではなくてそれぞれの在り方を示しているに過ぎません。研鑽するにしてもしないにしても優劣がつくものでも無く本人のこの先の生き方のひとつのテーマだと思うのです。

さて私にとって学ぶとはどういう事か…それは初心に帰って素直な気持ちになって、好きなものに心を傾けることです。もうこの歳になればしがらみを忘れて吸収したいものをすれば良いのだと思います。学びの中で裸の心でもっと自意識を高めることだとも思います。
私は還暦を経たこれからの人生を “NEXT DIMENSION(次の次元)”と位置づけました。

生き直し、それも価値観や価値基準を超えてのリスタートですから、やはりそれなりに学び習得する心構えは必要になって来るものだと思います。子供の頃の、ただ従順に教わったというスタンスから主体的に学ぶというスタンスに切り替えて新しい世界への学びを始めようと考えました。この主体的に学ぶという習慣はフィンランドなど一部の国では既に当たり前になっているものなのですが、わが国では子供の頃に既に間違って習慣づけられて大人になってしまうために気づく機会を失っているケースが多いです。
そんな訳で、還暦を過ぎた私たちには「学び方」の変革も必要なのかも知れませんね。

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この先をどう生きるか [還暦学講座:第二部]

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『いつまでも若かった頃の幻影を追いかけていても始まらない。そんな事はロマンチストな私でもよく分かっている事だった。それでも無性にセオリーから外れて突拍子もない事に心惹かれるときがある。歳をとってから起業を志してみたり、放浪の旅に出掛けたりするのもそういった衝動の表われだろう。何にも頼らずにどこまで生きてゆけるのか、そんな事は幻とどこかで分かっていた筈なのに試したい気持ちがあった。正直なところ、体力はすっかり衰えて中年の頃に頑張りの元となっていた粘りは影を潜めているが、ここ数年の間自粛して封印して来た腕白で我が儘だったかつての意気が少し頭をもたげてきた様に思った。
これまで何度か痛い仕打ちを受けて、人生を甘く見ていた自分に喝を入れて悔い改めた私の筈だったが、もう残されている時間が少ないと思ったとき無性に何かに命を賭けてみたくなった。』・・・
 そんな書き出しで始まった自己満足の短編ストーリーだったが、気がついたら物語からは程遠い処に立っている自分がいた。ある意味で自分自身を裏切って生きているのかも知れない。夢の中ではロマンを求めている様なのだが、いざ現実に戻ると萎えた自分を抱え込んでしまう。威勢のいい割には月並みな生き方を選んでしまう…はっきり言って「小市民」というヤツだ。しかし、だからこそ我を忘れられる様なひと時を求めるのだろう。『還暦学講座』に於いては「ロマンを求める生き方」も題目のひとつになるかも知れないと思った。

 日常を超えた非常識な生き方は、社会からリタイアした身分だからこそ出来るとも考えられる。世のしがらみを越えて己の価値観に忠実に生きる機会は、リタイアして世捨て人となった者でしか得られないのかも知れない。そういった意味で “ロマンに生きる生き様”は現実から遊離した妄想の一種でもあろう。若者はよく世の中に背を向けて夢を実現するようなことを口にするが、本当にそれだけの気概を持ってチャレンジする者を見つける事は稀である。世の中の傘の下で世の中の一員として生きている限り、世の中と折り合いをつけて生きている証しなのだから…本当の反逆児はほとんどの場合は投獄されるものである。
 この世界に生まれて「小市民」としてでも生きていられるという事は “幸い”な事である。人間の権利すら持ち合わせず生命を失う人たちが大勢いる世界なのだから、勝手な事を言って生きていられる我々はマシな方だろう。しかし、かと言って自分自身を生きているかと云えば、それはどうなのだろう?考えてみれば、生まれてからこれまでどれだけ自分の欲するままに生きて来れただろうか。そこでひとつの問題提議である。「もうあと残された時間が少しという状況の中で何か納得と確信の持てる行動をしたいと思わないだろうか?」

 多くの人の “死に際と死に様”を見て来て思うことは、ほとんどの場合死に際して人は無力である。苦しんだり悔んだりもすることはあるが、どれくらいの長い時間なのか他人には分からない。一瞬の様でいて永遠の様でもあり、すべては本人の “定め”である。そこで私は考える「今際の時に納得と確信のある覚悟を持っていたい」それには今からでも遅くはない、何かひとつでも「自分の信じ切れるもの」を “秘かに”感じ取ることだろう。

 子供の頃から胸の奥に秘めて来て、いつの間にか忘れ去ろうとしていた “決して普段の生活の中では口にしてはいけない事”をそっと思い起こしてみよう。これまでの人生で私が行なってきた事すべては露のように消える定めなのだ。本来の私の心に秘めて来たものを残しながらたった一人の終活をしよう。

 

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高齢者にとってのSDGs [還暦学講座:第二部]

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SDGsという言葉が最近よく使われているが私も当分の間その考え方に沿ってみようと思っている。
私たち高齢者にとってこれからの世界は今まで通りの考え方では難しい。頼れるものはほとんど無くなったと考えた方が良いだろう。というよりは、これまでの日本の社会が珍しいくらいに快適だったのだ。はっきりと分からないまでも、何か漠然としたものに保護されていた様に思える。日本的甘えの構造という言葉があったが、まさにその通りで私たちは自立してサバイバルに生きる事から逃れて来たようだ。
確かに過去の敗戦の壊滅的な廃墟から復興した活力は評価すべきものがあるが、先人が作り上げた経済復興の仕組みに甘え溺れ過ぎた様だ。そう云う私自身も疑問視することなく快適で満ち足りた生活を求めて来た。それが人間の本来の姿であるかのように肯定しながら、後進世界の悲惨な姿に欺瞞と偽善の声で訴えながら、いずれ来る「死」に向かってのうのうと生きてきた。

通常云われている『SDGs』を全く疑問視せず受け入れているわけではない。20年近く前になるが、かつては『CSR』という言葉がよく言われていて、もちろんその主旨は今でも健在で消え去った訳ではないのだが、ひと時の事を思うとあまり聞かなくなった。国連第7代 アナン事務総長の提唱で広まった “企業の社会的責任”と“サステナビリティ”の発想は一種の流行の様相で私も熱心に学んだものだった。特に日本で生活している私たちは欧米で発せられるスローガンやキャンペーンに乗りやすく思うのだが、この『SDGs』にしてもその類に感じないでもない。
現在の世界で言われている『SDGs』が誰によって誰のためにどの様に実践されようとしているのかは分からないが、私たち日本人の理解の仕方とはきっと別のものだろうと思う。いまだに「御上の思想」で生活を営んでいる私たち日本人のメンタリティでは、SDGsのサブタイトル “No one will be left behind.”を具現化することは難しい。しかしこれは「高齢者を置き去りにしない社会」のコンセプトとも合致するところがある様に思うので私なりに支持して展開してゆきたいとは考えている。でも多分、日本でのSDGsの理解の仕方とは違っているので異端扱いされるでしょう。そういう国なんです、この国は(苦笑)

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人生の匙加減について [還暦学講座:第二部]

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「さじ加減」という言葉がある。微妙に調整して程良く按排することである。バランス調整と言い換えることも出来るが、人生のいろいろな場面でこのさじ加減が必要になる事が多い。
使われ方が「忖度」の様に曖昧で胡散臭い場合もあるので全面的には受け入れられていない様だが、還暦を経た高齢者である私たちなら良く理解して都合よく使える言葉だと思うので、今回は「さじ加減」の使い方について語ってみたいと思う。

ある時期から私は人生を生きる中で大事な要素は“バランス感覚”だと思って来た。事あるごとに様々な場所でもそう語る事が多かった。そのバランス感覚を具体的な技術で置き換えると“さじ加減”という事になる。
「人を見て法を説け」という言葉は“相手によってものの言い方を変えよ”という意味でもある。人によって心にしみる言葉は違っていて、万人をひとつの言葉で納得させ感動させようと思うのはただの自分勝手で間違っている。どんなに正しいと思う事でもそれを理解させるためには自分の感情を裏切る“裏腹な言葉”を借りなければ出来ないことがある。正直である事がいつも正しいとは私は思っていないし、正しい形は他にもいろいろあって一方的で一面的なものなどではない。還暦を過ぎた大人に対して講座という形を通して私が言っている事は、そういったこれまで教えられてきた観念を越えるという事なので「さじ加減」という言葉にしてもその様に受け取って欲しい。

つまり若い頃は一途に生きる事が失敗や怪我は多くてもそれが将来の糧になる事が多いと云えるのだが、高齢となってこれからを生きてゆく者にはあまりひとつの考えに執着せず適度な配合のバランス感覚を身に付けた方が“大人らしい生き方”に思えるという事なのだ。
世の中には何事も100%完全なものは無い。全てが不完全で未完成で不揃いなものなのだ。100%の善もなければ100%の悪もないし、100%の正もなければ100%の誤もない。善悪も正誤もそれらが混じりあってそれぞれの形を創り出している。乱暴な言い方をすれば“矛盾の中に全ては存在している。”間違いも正しいもなく、それらの渦の中でバランスを取りながら、今日は東へ明日は西へと模索し続けながら生きてゆく。それが“人生の妙味”と感じられる様になった時が「還暦の齢」なのかも知れない。

<この項 未了 つづく>

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高齢者としての働き方改革 [還暦学講座:第二部]

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高齢者が世の中に貢献できることは何かと云えば、過去に埋没している陽の当たらなかった真実を紹介することもそのひとつだろうと思います。また時代の尺度から見落とされて評価される事のなかった寡黙な真実を拾い上げる事も、時代を生き抜いてきたからこその慧眼の為せる技ではないかとも思います。
アクセルとブレーキを踏み間違えたり、既得権にあぐらをかいて上級市民などと思い上がったり、そんな高齢者は世の中の迷惑の代表選手の様なもので、“成功体験”という言葉が自己開発セミナーなどでよく引き合いに出されるのですが、これはこれからを生きる若い人たちへの言葉なんです。年寄りの成功体験なんて時代と共に消え去られる過去の栄光でしか意味をなさず、そんな事よりも高齢者として自負できる事は本当は様々な環境で揉まれて来たという事なのだと思うのです。

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変わってしまった環境を嘆いていても始まらない。そしてそれは今が旬の中年たちにしてもいずれ訪れる事なのだからその時になって分かる事です。今、目に見えている事態に追従する事を考えるよりも、無駄な心配に時間を費やさず年配の者は自分たちの生かせる場を見つける事が先決なのだろうと思います。
そういった意味で「働き方改革」という政策には期待をしてしまうのですが、よく吟味してみるとガッカリする結果になる様です。誰のための何のための“働き方改革”なのか…やはり他人の作った制度
に頼っていては何事も始まらなくて、世の中の制度とは大体がそんなものなんです。

さてそこで、何をめざして何をするか…?ヒントは「メルカリ」の中にあると思いました。最近はSNSなどのネットを利用して「クラウドワークス」とか「ココナラ」「ランサーズ」といった自分の得意技を活用できるような仕事のシェアリングが行われています。このシステム自体はまだ時間も浅くて整備されていないので、中には如何わしいものもあって100%の信頼は置きにくいですが、これからの働き方を考えるひとつのヒントにはなりそうです。
その中で「メルカリ」というのはSNSビジネスの最前線として試してみる価値がある様に思いました。自分の不要になったものや希少な欲しいものをネットを通して売り買いする、オークションやフリーマーケットとは少し違ったシステムが見られるのですが、これをジャンピングボードにして自分自身のビジネスを形づくるきっかけが出来るのではないかと思うのです。
既成のシステムを複合的に使って、自分のビジネスにとって使いやすい展開を工夫する事が今の時代の高齢者の働き方改革ではないでしょうか。

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還暦の創造を考える [還暦学講座:第二部]

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還暦を過ぎてからの冒険・挑戦のひとつに“起業する”という事があるだろう。しかし若かった頃の起業とは意味合いも違うものだ。
かつては私も独立自営をしていた事もあるのだが、それはクリエイティブな世界で独自のスキルを身に付けて、地方ではあったが時代の先端的な活動をしていたものだった。子どもの頃から絵を描く事が好きで学生時代から漫画や絵本を描いていた事が高じて広告クリエイターとして独立の道を歩むことになったのだ。
そのまま続けていれば自分の好きな道で自由と富も手に入れて、還暦を経た今頃は悠々自適の生活を送っていたのだろうが…


最近訳あって、在宅ワークを模索し始めた。考えが甘いとは承知しているのだが、外出して日中の数時間職場にいる事が困難に思えたので、かつてSOHOとかホームオフィスという言葉があったが、その様な感覚で仕事が出来ないものか考えた。
「働き方改革」とか「副業時代」とか言っている割には社会環境が整っていない様に思える。そもそもお上に頼る気持ちが間違っているのだ。結局は若かろうが歳を取っていようが他人に頼らず、新天地を耕す気持ちで創造性を持って立ち向かわなければならない様に思う。これまで歩んで来た道のりの蓄積されたスキルやキャリア、有形無形の使えるものを棚卸しして、搾りかすでも良いから創造性を発揮して使い切る気持ちが大切だろう。


広い世の中には、自分に同感し同調してくれる人もいることだろう。後押しをしてくれたり協力をしてくれる人もいるかもしれない。しかし、まずは独立独歩で自分の道を歩き始めなければならない。何かに頼る気持ちを抑えて、そこから始める覚悟をする事が、還暦の次の世界を手に入れる心構えの様に思える。
還暦を過ぎた高齢者にとっての“創造的ワークとは…?” またの機会にもう少し掘り下げて考えてみたい。

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還暦学講座 第二部の開講に際して [還暦学講座:第二部]

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「還暦学講座:第二部」というもったいぶったタイトルで始まりましたが、別に講座形式でも講義を語るというようなものでもありません。単に語呂が良いだけのことです。
この第二部では、講義というよりは私個人の還暦に関わる所見の様なものを語ってゆきたいと思っています。以前の第一部は講座形式によって人々に伝えたいという思いから始めた初歩編でしたが、今回は問題提議も含めた私個人の還暦学発表の場とお考え頂きたいと思います。

さて、私が「還暦学」なる名称を用いたのは世の中の還暦を経た高齢者一般にその自覚が浅いのではないか、と思ったからです。今から半世紀ほど前までは60年も生きればもう立派なご隠居さんで、社会からリタイアして慎ましやかに暮らすという姿が見られたものですが、現在では平均年齢も伸びてまだまだ終焉を迎えるには早すぎると云った高齢者が大多数の様です。百数十年前には地域によって一定の年を召した老人は生活圏を離れた山に幽閉されて余生を送る風習があったそうです。(今では差別用語かも知れません「姨捨山:おばすてやま」と呼ばれていました)もちろんそんな前近代的な社会と比べるつもりはありませんが、民主主義と言われる世の中が進んで人権や福祉など人間にとって生きる環境が良くなったと思われている今日であっても、それくらい人間が生きてゆくという事にはいつの時代でも理不尽さがつきまとうという話しなんです。

還暦を経た高齢者の一員として私は二つの生き方をテーマに「還暦学講座」を進めて行こうと思っています。
ひとつはこれまでの人生に一度終止符を打って、新しい視点から別の次元にシフトして再スタートを切る「還暦からの未来構図」。まだまだ諦めずに高齢者にふさわしい挑戦を続ける意識とモチベーションを大切にしたいです。
そしてもうひとつは今を見つめて今を大切にする生き方の提案。山の頂上に来たらもうこれ以上高みを求めるのではなくて、帰り道を味わいながら下山するのも生き方かも知れません。挑戦する生き方とは真逆の様にも思えますが、これは決して矛盾しないと思います。

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還暦からの人生は、これまでとは視点を変えた「現在・過去・未来を総括した生き方」を模索してゆきたいと思っています。

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