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No one will be left behind. [還暦学講座]

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上の絵は亡父が70代の頃に描いていた絵(油彩:50号)である。父は世の中へのテーゼと云うよりは自分自身への問い掛け、慰めとして描いていたのだろうと思う。
老いた事で生存価値を失い、現実から廃棄されようとしている者たちは何処に向かって何を求めてゆけば良いのか?そんなテーマを描き続けていた様に思う。彼はややペシミストで朝日よりも夕陽に美意識を感じる人だったので悲壮感の漂う作品が多かったが、その心内は人並みのほのかな幸福を求めていた筈だ。

求める“幸せのかたち”は十人十色で人それぞれなものだが、俗とは云え世間と切り離され見捨てられたような孤独感はだれも望んでいないと思う。それなのに何故世の中には見捨てる人、見捨てられる人がいるのだろうか?それは自然界の掟でありセオリーだとでも云うのだろうか?自然界の非情な掟だったとしたら、それを緩和するために人間は社会というものを創り上げて機能させようと考えたのではなかったのだろうか?人間社会はそれぞれが最低限度の幸せが甘受出来るための仕組みになるべきだったのではなかったか?
それは誤解で社会とは権力を行使して弱者から吸い取るための寄生構造だと云うのだろうか?だとしたら、何と残酷で愚かな世界を私たち人間は後生大事に美化しながら生きているのだろうか……。まだまだ自分たちの知らない世界を開拓してゆく余地が隠されているに違いないとは考えられないだろうか?

まだまだ私たちの経験した事のない世界…それは人々に“順位のない幸せ”の感覚を教えることから始まるのではないだろうか?例えば“自己を全うして死を迎えることの幸せ”。誰もが見捨てられる事のない充足感と安心感…
人々の安心感の対極に“不安感”というものがあるがこれこそが間違いの根源かも知れない。人々や社会に不安の種を撒いて混乱させ、甘い囁きと救いの話しでマッチポンプの様に刈り取ってゆく。そんな構造は遥か昔から古今東西で見受けられる…いやそれが人間世界の歴史の様でもある。人間が誕生した時から既に内在していた“生命に対する不安感”は古代から神を生み出し宗教を生み出してきた様だ。この不安な気持ちというものは根源的なものだから無くすわけにはいかないが、これに打ち勝つ方法はある。それは幻想を破り真実を見極めるという事かも知れない。

No one will be left behind. すべての人たちから不安感を取り除くこと…それは“誰もが置き去りにはならない社会”をめざすという姿勢につながる。


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第七回/最終回:還暦の達人をめざす [還暦学講座]

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【第7回/還暦の達人をめざす】


一回限りの人生なんだから、その真髄を味わって生きましょう…というのがこの講座の意図なんです。私自身が還暦を過ぎた頃からどういう訳か身が軽くなって生き易さというものに目覚めた様な気がしたので、その真髄を私なりに検証してみようというのが始まりでした。

歳を捨ててゆくという発想に立ってみる。
高齢者という呼び名だからこそ、歳を経ることは益々高みに向かい先に進むような印象を受ける。
私は「老人」でも良いのにと思うが、どうやら“老い”のイメージは宜しくないらしい。“いつまでも若いイメージで”というのが世間から求められる人の生き方らしいが、しかしその不自然な生き方が人を窮屈なものにして人生を虚偽なものにしてしまう。
しっかり自覚して見据えなければならないことは、“歳をとれば衰える”ということである。そして歳をとることは先に進むことではなく、退いてゆくことであるという感覚を取り戻す必要がある。


背負っているものをどんどん捨ててゆく、肩の荷を下ろしてゆくことでもある。幼児化という意味ではないが、生まれたばかりの純粋な心を取り戻してゆく、そういった意味で若返るのである。
例えば、子どもの頃の夢や憧れを心待ちする幼心を取り戻すこと…それは社会的に無知になり非常識になることであり、自由になることでもある。
(※ちなみに昨今に見られる高齢者の非常識な横暴さとはまったく意味が違うので誤解なされないように)
これまで社会とどのように関わって来たかを考えて、やり直したい部分があれば残りの時間でやり直してみるのが良いだろう。臨終の際にスッキリと向こうの世界に行けるように、心残りを少なくすることだ。そのためには取捨選択の覚悟が必要となる。諦めではなく覚悟するという心構えが必要となる。達人とはあれもこれも手に取るのではなく、自分の得意とするものに絞り込んで極める人のことである。

…とは言っても出家をして霞を喰うわけでも無し、まだまだ世間に揉まれ社会にまみれて生きてゆかねばならない。たぶんこれからの世の中は私たち還暦過ぎの高齢者を役立たずの厄介者のような目で見そうだが、そしてそれは半分当たっているかも知れないが、そんな風潮にめげていてはいけないのだ。新しいパワーを生み出す力には劣っているだろうけれど、何か新しい価値を発見して社会からの削除を求められない様にしっかりする事が「21世紀老人のミッション」…なんてネ。


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さて、七回にわたって講義を続けてきましたが取りあえず今回を以って終了とします。
「還暦学」などという大それた題名を付けましたが、元々は「還暦」という節目をこれまでの視点とは異なった新しい解釈で探究したいというのが始まりでした。そして改めて感じた事は“このテーマはこれからを生きる高齢者にとって必須の問題を含んでいる”という事でした。


後日さらに研鑽に努めて『続・還暦学講座』を開講したいと思います。それでは皆様ご機嫌よう。 


第六回:自分らしい視点で還暦を眺める [還暦学講座]

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 還暦というひとつの節目を機会に新しく“別の視点で日々を生きる”ことをテーマにしている本講座、私の場合は「絵本を描く」という行為から還暦を経た後の可能性を発見しました。可能性の発見とは言葉を変えれば、それまでのものを眺める視点を移動させる事でもありました。絵本を描くことはたまたま私にとっての身近な材料であっただけで、人それぞれの動機に置き換えて理解して頂ければ良いかと思います。


 私が絵本を自己表現のツールとして選ぶまでにはそれなりの経過がありましたが、“絵本という視点”を持った事でその視点を通して多くを眺めるスタイルが出来たようです。これまでと変わらない日常が、別の新しい視点を通すことによってまったく違った風景が現われ展開が始まるという事がわかりました。

 視点を変えて還暦を迎えた自分のこれからを考えてみると、日々過ぎてゆく時間の中でこれまで価値があると考えていた既存のものの多くがすっかり様相を変え始めている事に気がつきました。自分自身の存在価値が低下しているように感じた事は多分事実だったのでしょう。創作のコンセプトを根本的に見直さなければ還暦を経ることの意味が分からずに終わるような気がしました。
 悠々自適に暮らしている人もあれば、相変わらず生活に追われて窮々している人もいます。これまでの結果を時間を戻して別の選択をする訳にはいきません。それよりもこれから先、人生の終焉を迎えたときにどの様な心持ちで自分の生き様と対峙しているかが大切な事のように思えます。

 自分にとって最適な視点が定まったらまずそこから未来を考えます。表現が少しオーバーかも知れませんが、その新しい視点を持って生まれたばかりの子どもだと考えてみれば、ここからが全てのスタートラインという訳です。過去の固定観念に縛られていては生き直しの意味がありません。まったく制約が無いとしたら、あなたはどんな作品をどんな意図で描きたいと思っているのですか?何に憧れて何に敬意を表わしたいと考えているのでしょう?


【還暦の視点を持つためのアクション】

・イマジネーションの中でしがらみを排除して、孤独の状態で思いを巡らせる。
・善し悪しの判断を一切加えずに、手に入れたいものを思い浮かべてみる。
・自分を高く評価できる時代にタイムスリップして、そこから判断してみる。
・現在の自分の位置が総括としての頂点であるとイメージして思考する。

 今のあなたは「還暦」という山頂に居ます。全てを見渡せる展望で周りを見下ろしています。この先これから何処に向かって行こうとしているのでしょう?目の前にあるものが何か感じますか?足下の根元に何か感じますか?
 本当に知りたかったこと、感じたかったことに向かって未来にデビューする準備は整いましたか?

 


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第五回:還暦からのデビュー(実践編) [還暦学講座]

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【第五回/還暦からのデビュー02】


さて、還暦の概念やこの先の展望、動機づけなどを各人が認識した後でいよいよ具体的なアクションに目を移したいと思います。


前回「自分を越える自分史」というテーマでお話ししましたが、観念論はこれ位にしてそろそろ具体的なアクションを起こすきっかけを見つけてゆこうというのが今回の講座です。
まず今の私自身を棚卸しします。これまでの生き方を俯瞰しながらそこから発見され生まれる発想の芽から次の一手を導き出す。これが歳を経た後の自然の流れに沿った自己開発というものです。


これまでの記憶の中を探ってみた時に第一に浮かび上がったのはどんな事だったでしょうか?
それは肯定的な感じ?それとも否定的な要素を含んだもの?
どちらにしてもそれに磨きをかけてゆくことが最初の作業になります。磨きを掛けていると少しずつ外側の被膜が剥げて内側からその本質のようなものが醸し出されてくる事がよくあります。
何であれこれまで取り上げようとしなかった、または避けて来た部分があったとしても心の中に留意している本質的な要素で取り組むことが肝要だと考えます。否、これまで避けていたからこそ還暦という機に及んで取り組んでみる価値があるのかも知れません。


例えば「公募」にエントリーしてみるという方法があります。企業が募集する全国を対象にしたものや地方の行政機関が募集する地域を対象にしたものなど、そのジャンルは様々で自分の得意とするものを見つける事は難しくありません。当初の目的は受賞することではなく自分の中に溜まったものを発露する事ですから気楽に本音でエントリーしてみることですね。


「公募」にエントリーというのはあくまでも一つの例です。興味の対象はひとそれぞれですから自己発露の方法は限られたものではありません。これまでやって来なかった部分に少し風穴を開けるという感覚で、要は自分自身をデビューさせる意識なんです。


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いつの間にか隔世に引きこもっていた自分を還暦デビューの世界に引き出します。名刺を作ってみたりSNSの世界で露出させたり自己紹介のポートフォリオを編集したり、しばらくご無沙汰だった旧友と再会したりetc. 活動を始めた自分の新しい一面をこれまでやって来なかったプロモーションをすることで既成の枠から少しはみ出してみます。
はみ出した世界はどうですか?違和感がありますか?それとも清々しさはありませんか?はみ出すことを不快に感じなければ、それはもう新しい扉が開いたしるしです。


「還暦からのデビュー」の意義をここで改めて確認してみたいと思います。
還暦デビューは人生の再生です。未知への恐れを取り外して自分自身が好きになれるような生き方を選ぶ生き直しの機会です。
還暦デビューは人生の棚卸しです。訳あってこれまで気に留めてこなかった事や物に目を向けてその潜在的な意味・意義を見つけ出す価値発見の機会です。
還暦デビューは人生の展望台です。社会教育や歴史教育など固定観念の視点から俯瞰してより自分らしい可能性を発見するパラダイム転換です。



次回は更に具体的な一例として、私個人の発想で取り組んでいる「絵本づくりを通しての還暦デビュー」についてお話しをしてみたいと思います。


 


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第四回:越えるための自分史 [還暦学講座]

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【第四回/越えるための自分史】

ひとくちに「自分史」と言っても様々な目的や意図があって、その内容形式にも違いがあります。
この講座では常識的な世間一般の自分史ではなくて、還暦という視点に立った自分史を意図してみたいと思います。

二十代の若かった頃読んだ本に“人生と旅”について書かれていた事が印象的だったのを今でも覚えています。印象的だった割には本のタイトルとか著者を覚えていないのですが、著名な先生が書いたようなものではなかったと思います。
その本に書かれていた事でいまだに私に影響を及ぼしているのは、旅と人生のどちらもサークル(円)という言葉がキーワードになっていると発見した事でした。

旅行の事を「travel(トラベル)」と言ったり「tour(ツアー)」と言ったりしますね。どちらも本来の旅の概念から成り立った言葉の様です。
「travel」の語源はフランス語の「travail(トラバーユ)」と言われています。中世ヨーロッパでは“旅する事”は人生勉強のひとつでもあり、若者が旅に熱心な様子はドイツの作家ヘルマン・ヘッセの短編によく登場します。「travail」は日常の仕事や労働を意味していて、実際に旅行中に就業したりアルバイトをしながら旅行を続ける若者も多く、一種の人生修行でもあったわけです。日本でも家を出た股旅が一宿一飯の働きをしながら旅を続けるのと似た部分がありそうです。
かつて、この時代の旅は物見遊山の観光以外に何らかのミッションを抱えたものが旅の本質だったようです。

「tour」という言葉は、『周回する、ぐるりと回る』といったニュアンスを含んでいて「周遊旅行、観光旅行」といった意味合いが強いようですが、こちらはまさに出発した起点に戻る「circle(サークル)」を示しています。
これら旅を表わす言葉から推察して、かつての私は『人生とは修行であり、原点に帰る旅でもある』といった意味を含んでいるように思いました。
人生の旅とは“高みを目指す旅”というよりも、ぐるりとひと巡りして“自分本来(の位置)に戻る旅”でもある、そんな見方もある様に思います。

さて自分史に話を戻しますが、これまでひと通り人生を生きて来て自分史を記そうと思った時に、どの様な思いが頭を巡らすでしょうか?
何か書きたい事があるからこそ自分史を記してみようと思った訳なんですが、それは既に到着点を用意してそこに向かう儀式のようなものに思えます。もっと言うなら、終活…遺書…のようなもの?
そういった記録の編纂も自分史の側面であることに違いはないのですが、ここで私が取り組んでみたいのは還暦という座標から眺めて『還暦その後』という視点からの自分史なんです。

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“自身の歴史を越えてゆく意識を持って自分史に対峙する”とでも言いましょうか…。
自分の歩んだ道を別の価値観点から検証する、と言うと何だか難しそうですが早い話が自分の積み重ねて来た歴史をこれからの生き方に役立てるということなんです。

そこで私の提案する『還暦からの自分史づくり』は“生かされてきた自分を越えて、生きる自分の歴史をつくる”という作業です。
作業は手法とか手順に縛られず自由に気の向くままに進めれば良いのですが、具体例として基本的な作業のパーツを示してみます。
 

  1. 記憶に残っている自分の関わったいくつかのエピソードや事件をランダムに書き出してみる

  2. それぞれの出来事に対して記憶に残っている事象を書き出し、時系列に並べてみる

  3. 流れの中で分岐点や決断を迫られたような部分に立ち返って、現在(いま)の自分の価値判断で選択をしてみる

  4. 未来にはたくさんの可能性のあった事やこれからもたくさんの可能性のある事を認識してみる 

還暦は過去の自分史の到着点ではあるけれど、生まれ変わった視点を持てば未来の自分史の出発点でもあるようです。
この世に生まれ出でて以来こころの奥で“探し続けてきた答え”を素直に求める生き方が自分史の始まりです。

 


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第三回:還暦にまつわる名言を辿ってみる [還暦学講座]

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【第三回/還暦にまつわる名言を辿ってみる】

時代と共に人の価値観は移り変わるものだが、これまで様々な時代に登場した歴史上の人物たちにとっても「還暦」の捉え方は人それぞれであったのだろう。
欧米社会(西洋文化)の中には「還暦」という概念は無いようだが彼らにとっても“老齢を経た先の生き様”に対してはそれぞれ哲学のようなものがある事だろうと思う。
過去の賢人たちの還暦にまつわる概念の捉え方をみながら、自分自身のスタンスを再考してみるのも面白いかも知れない。

直接に還暦を思い描いた言葉は見当たらないが、円熟期を過ぎて人生を俯瞰しながら語った言葉にはある種の覚悟の様相を表わしているようにも思える。
いくつか拾い集めた言葉をランダムにならべてみます。自分の心に訴えるものを自分で探して整理してみることが本当は一番良いのかも知れません。時間があれば一度試みては如何でしょうか

[人生振り返りの言葉集]

  • 人は二度生まれる。 一度目は存在するために。 二度目は生きるために。<ジャン・ジャック・ルソー(哲学者)>

  • 十六歳で美しくても自慢することではないが、六十歳で美しければ、それは魂の美しさと言える。<マリー・ストープス(女性運動家)>

  • 失ったものを数えるな、残されたものを最大限に活かせ。<ルートヴィヒ・グットマン(パラリンピック創始者)>

  • 私たちは閉まったドアを後悔して眺めたままで、新しいドアがすでに開いていることに気づかない。<アレクサンダー・グラハム・ベル(発明家)>

  • 旅する心は私にとって、精神の若返りの泉である。<ハンス・クリスチャン・アンデルセン(童話作家)>

  • 遠く離れてみることです。 仕事が小さく見えてきて、全体がもっとよく眺められるようになります。<レオナルド・ダ・ヴィンチ(芸術家)>

  • 困難を予期するということは、決して起こらないかも知れないことに心を悩ませることである。<ベンジャミン・フランクリン(政治家)>

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[そして所感]

何となく共通して言えることは、人生をある程度生きてくると多くの場合それまでの生き方から視点がシフトするという事ですね。
この世間を生きてくると様々なしがらみも生まれたりしてそう簡単に生き方を変える事は出来ません。しかし視点を変えて物事を捉え直す事は出来そうです。
そうやって“生かされてきた人生”を主体的な位置付けに置き直して自身にとっての意味を見い出しているように思えます。

還暦の視座とはそういった主体的な視点を持って改めて人生を眺める『立ち位置』でもあるのでしょうね。魂はそうやって再生するのかも知れない。

 


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第二回:還暦からのデビュー(序) [還暦学講座]

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第二回/還暦からのデビュー01

今回は還暦を経て高齢者と呼ばれるようになった時点で、どのように社会と関わってゆくか考えてみたいと思います。
世間では幼い子が外部との接触を始めるキッカケを「公園デビュー」という形でアクションを起こしますが、本講座の対象である高齢者の私たちは各々が存在価値を失わず社会と繋がるという思いを込めて「還暦デビュー」という言葉を使います。

社会との繋がりという意味には様々な側面がありますが、
例えば、年金受給や介護施策などを社会的権利として受ける受身的な立場と、NPOやボランティア活動を通して地域や社会に参加したりする主体的側面がありますが、ここではあくまでも自立的な高齢者としてのスタンスの取り方を考えてゆきたいと思います。

言葉を変えれば「社会的存在価値の自負心を感じながら、主体的にどう関わってゆけるのか」という関係性を築くという事なのですが
ところが、社会的成功を収めて社会から容認されていると自負されている方々は別にして、還暦を経て定年退職など社会的立場からリタイアと言われている世代はこれまで指標としてきた社会の基準がすっかり変容してしまった事に困惑しているというのが大方の状況ではないでしょうか?
社会の恩恵を期待するのではなく、社会にぶら下がるような姿勢ではなく、お邪魔な存在などとは言わさないような…そんな気概を持って生きたくても現実的にはそう簡単にはゆかなくて、社会構造と言ってしまえばそれまでで構造問題のひとつひとつをクリアしてゆくような時間的猶予もありません。

この先の延長線上に自分の求めるライフスタイルは見つからないとはっきり見切りをつけて、そしてその上で改めて自分の思考回路(ものの考え方)をチェックしてみます。
すでに答えとして準備されている生き方ではなく、発想を変えてこれから模索してゆく生き方を選ぶことが還暦からのスタート・デビューの生き方で、そのためにはこれまで信条としてきた価値観に未練を持たずしがみつかない勇気です。

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何だか回りくどい様な表現をしましたが、簡潔に言えば「自尊心を持って生きれる環境」を自力で発見することで、そのためには何ものにも安易に妥協してぶら下がらない意志です。
若い頃から習慣づけられてきた「上手にやろう」「賞賛されよう」という気持ちに振り回されず、この場合には社会通念の価値基準から離れたマイノリティである事を恐れない気持ちが大切になります。
もういいではないですか、周囲から誰彼となく「良く思われたい」という気持ちに振り回される人生は。

各々の持つ欠点を修復しながらも、それが未だ不完全なままであっても堂々と歩むこと。
そもそも完全不完全とは何なのでしょうか?何をして「完全」なんて言えるのでしょうか?人は常に至らぬままで人生を歩むものなんです。
そう考えていると、ふと何か似た考えに思い当たりました。
そうです、障がい者の抱える問題の一側面です。社会の健常者という基準から外れていても障がい者として同じフィールドで生きてゆかねばなりません。社会の優劣という基準に縛られてものを考えていたのでは自尊心を生むことは困難です。

還暦を迎えた高齢者は社会的には障がい者とよく似た立場だ、などと言えば憤慨されますか?
それはこれまで不完全であることに恐れを抱いてきた自分が言わせているのではありませんか?
これは単に高齢者だからとか、障がい者だからとか言った問題ではなく、日常社会における“マイノリティの存在意義”という考え方で、そこに還暦の視点を置いて新しいパラダイムを構築する事が真の意味での挑戦的なデビュー機会であるように思えます。

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今回は、還暦からのデビューはどういった捉え方で取り組むものなのか、基本的な概念のようなものを考える機会を持ってみました。
全体に統一される一種のグランド・コンセプトの確認のようなものなので、やや抽象的な感じはあります。次回の「還暦のデビュー編」ではもっと具体的な対応について考察してゆきたいと考えています。

 


第一回:還暦のスタンスを考える [還暦学講座]

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第一回/還暦のスタンスを考える】 

まず初めに「還暦」のスタンスを確認してみたいと思います。

そもそも「還暦」とは何かという事ですが、「還暦」の成り立ちを調べてみました。

辞典などに記述されている「還暦」の一般的な解釈として、『還』は「まわる」とか「出発点の方へ戻る」といった意味があります。
『暦』は干支(えと)を指しています。

二つを合わせると「干支が出発点の方へ戻る」という意味になります。
しかし考えてみると、干支は十二あるのでそれが一周してまた自分の干支になった歳と言えばそれは12歳ということになってしまいますが、ここで使われている干支は、どうやら古来中国から伝わった十干十二支の干支であるらしいのです。
説明をいたしますと当時の中国では、干支は『十干』と『十二支』の組み合わせで表していたらしく、『十干』というのは「甲・乙・丙・・・」と続く昔ながらの数え方で、『十二支』はお馴染みの、「子・丑・寅・・・」一般的な干支です。

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十 干 : 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸 ? ?
十二支 : 子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥
-------------------------------------

十干と十二支を並べてみました。すると、「戌 亥」に対応する十干が足りません。
そこで、十干の初めに戻って「甲 乙」を繋げます。

-------------------------------------
十 干 : 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸 甲 乙
十二支 : 子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥
-------------------------------------

不足分に最初の「甲 乙」を入れると後はそれぞれの組み合わせの連続が出来上がります。
そこで例えば、「甲」と「子」を干支とする人の組み合わせが次に来るのはいつになるでしょう?
10と12の最小公倍数という事でそれが60という数字になる訳です。
この組み合わせが十干十二支の干支の考え方です。

これで、ようやく納得出来るようになりました。
つまり60種類の干支があったということになります。
60種類の干支が60年かけてやっと1周することになり
そこから、還暦が60歳という節目の年齢になった・・・というわけのようです。

これが還暦の意味と成り立ちなのですが、ではその還暦をどのように自分自身の中に位置付けるかという事を考えてみます。

この時点で人生を振り返ってみると、それは個々に様々な見解があるものだろうと思います。人の個性が一様でないように、人生に対する捉え方考え方も十把一絡げには出来ません。
しかしここでは一旦、周りのものに一切関わらず誰の束縛からも離れて自分自身の素のままの視点に立つという感じで物事を冷静に眺めてみたいと思います。
それが出来る絶好の機会ととらえて気持ちを集中させてみて下さい。

日暮川.jpg

後ほど別の機会にワークショップ形式で自分史を振り返る講義を試みたいと考えていますが、今回はまず自分の生き方の分岐点に立ち返ることをイメージしてみて下さい。
壮年期・青年期・幼児期とそれぞれに分岐点があったかも知れません。そしてそれを辿ってゆくと今日の自分を形成してきた原体験・原風景と出会う事があります。

今更、過去の自分を取り戻そうなんていうノスタルジックな発想を勧めるのではありません。ここまでに至る長い人生経験の道のりを冷静に観察することによって、自分に与えられた宿命や受け継がれた性格を深く理解してみるのです。
…でも、何のために?

これまで創られてきた価値基準を捨てたやり方で、自分自身の歩いてきた道のりを、還暦という視点から確認してみたいとは思いませんか?
若い頃には出来なかった、様々な制約から離れた視点で…何だかとても興味深いとは思いませんか?
“何かの為”と理由づけしなければ、何事もやってみるには値しませんか?
こだわる理由も準備も何もない、ただ来た道を眺めて帰路を辿る、それが還暦という山頂のスタンスだと思うのです。
これまでのパターンを踏襲しないこと。これこそ還暦の扉を開く心構えなのです。

 


還暦学講座:オリエンテーション [還暦学講座]

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 「還暦学」などと仰々しいテーマを掲げましたが、ここでは私が個人的な興味で考察している『還暦』というものを試験的に講座というスタイルで綴ってゆこうと思います。
 開講するにあたって形式的ではありますが、「私がなぜ還暦というテーマに興味を持ったのか」を簡単に説明したいと思います。

☆ 

 60歳になろうとしていたある時、求職活動をしていてふと考えた。…もしかして、社会の一員として対象から外れているのではないだろうか?
 これまで考えたこともなかったが、職に就くということは社会から求められて初めて成り立つ関係だ。社会の価値基準から見て価値が無いと判断されれば、生計を営むことが出来ないということになる。これは大変だ。

 しかし体力も能力も衰えたことは間違いなく、身を削る覚悟で取り組まなくては人並みの事が出来ないとは何と生きづらい高齢社会だろう。
 もっと自適な暮らしを送ることが本来の高齢者の生き方の筈なのに…私が子どもだった頃の高齢者たちは悠々自適とまでは言わなくとも、社会から急かされる様な暮らしはしていなかったように思っている。
 社会がこのように変化してしまった事は仕方がないとしても、もっと自分の居場所(存在価値)を感じられるような生き方が出来なければ尊厳というものを失ってしまう。今一度改めて、自分にとっての最適な生き方というものは何なのか…考えてみるのも良いのではないだろうか。

 そういった観点から、『還暦』は生き方に於いてのひとつの区切り目ではないだろうかと考えてみた。
 古(いにしえ)の時代から還暦という節目が人生の概念として置かれていて、それは人がある程度人生を達成したという意識づけ、ひと段落した年齢としての目安かも知れない。
 人は歳を経るとようやく自身の人生を顧みることが出来て、ひっそりと自己を眺める時間を手に入れるようである。そのための節目として『還暦』があるのかも知れない。

 『還暦』を例えば“山の頂にある展望台”のようなものに仮定してみた。
 山頂と言ってもそれは一様ではなく、高くそびえるものもあれば低くなだらかなものもある。それぞれがそれぞれの視点で人の生き方を俯瞰して見れば良い。
 満足感で充ちている人はそれほど多くはないと思うけれどここでは自分自身に答を出して一旦荷を下ろし、これまでの延長線上には無い新たな一歩としてこれからの身の振り方を確認する時間だと思えば良い。

 人生というものはどこかで答えを出して一旦終わらさなければ、いつまでも未練がましく真実に目覚める時はない。
 臨死を体験した者が、全く新しい発想・視点に目覚める事もそれと共通したところがある。
 『還暦』は自分の人生を一旦終着させる良い機会の様に思える。そしてここでこれまでの人生の答えを意識することはとても意義あることの様にも思える。

☆ 

 先人は人生の知恵として、生まれてから死ぬまでの間に『改めて人生の価値を発見する機会』を与えてくれていたのです。
 『
還暦』を考えることは、これまでの自分を見送って新しい次元を発見する思考の旅なのです。

 山あり谷ありを経て高齢の頂きに立ったこの機会に『還暦』の中に込められた「もうひとつの人生/別次元の旅」を洞察してみようではありませんか。

 


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