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-10- アラブでヒッチ! [欧州アルバイトヒッチ]



 チュニスに2日ほど滞在してから早朝に町を発つ事にした。チュニジアからアルジェリアを経てモロッコに向う、北アフリカ沿岸を西に進むヒッチハイクの始まりだ。地図で大体のルートをチェックして町外れに向う。視界の広い道をてんてんと歩き続けるのだが、乾燥した土埃や動物臭が漂っていた。国は違うが、マカロニ・ウエスタン「荒野の用心棒」みたいな世界が広がっている。
 一時間近く歩いただろうか、車の通りそうな道を見つけて沿道に立った。親指を立ててひたすら車の通るのを待つが、どうも気配が無く少しずつ不安になってきた。地図で再確認をしてみたが、やはりこの道がアルジェリアに向う本道のようだ。ここは忍耐と考えてとにかくジックリ待つ事にした。
 時間は過ぎてゆくが車は全く止まらない。それどころか行き交う車さえほとんど無かった。一時間の内に4、5台が通る程度で全く乗せてくれるような気配もなかった。陽が昇り正午近くになり、ようやく一台の車が止まってくれて町を離れる事が出来たのだった。

 一日目はある程度進んで別の町に移動できたが、二日目、三日目と日が進むに連れヒッチはだんだん困難になってきた。とにかくエンドレスな荒野にほうり出されたまま、ひたすら西に進むという感じで町にたどり着く事もなく旅を続けている。野宿の連続でシャワーも浴びていない。食料だけは何とかパンと牛乳パックを調達して過ごしているが、慢性の空腹感でいっぱいだった。「次に町に着いたら、たらふく喰ってやる。」という変な目標だけが心の支えとなっていた。
 チュニス出発から四日くらいして国境を越えアルジェリアに入ったが、ヒッチの状況はまったく変わらなかった。朝早くから夕方まで9時間近く沿道の一カ所で待ち続けた事もあった。車は相変わらず少なくて、サンサンと陽の照る中をロバの引く荷車が通ってゆくだけといった有り様だった。

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 アルジェリアでのヒッチはまったく順調に進まなかったが、色々と面白い体験の連続だった。アナバという町に夜更けにたどり着いたが、いまでも忘れられない程の素場らしい景観だったのを覚えている。

 深い渓谷の斜面にびっしりと立ち並ぶアラブの家々の灯が、深い闇の中でまるで宇宙空間の星たちのように三六〇度の視界に輝く様は筆舌に尽くし難いものだった。一夜明けて再び町の中心にある陸橋を散策してみたが、深い谷底から鉄柱で支えられた陸橋は町の端から端を結んでいて、その中央に立つと、まるで空中に浮いたような気分になる。橋から渓谷の下を覗き込むと、深い地の底からマッチ箱のような家々がすり鉢に埋め込まれたように立ち並んでいた。

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↑ 橋の上からの眺め。家並みが橋の下の深い渓谷に面々と連なっている。



 なんとか一台の車をつかまえて町を出て、いくつかの村を経て首都アルジェに向かった。到着したのは夕方のまだ薄明るい時刻だった。アルジェはさすがに首都だけあって整然としていて、植民地のなごりからフランス文化の香り漂う「白亜の港町」だった。港に面した湾岸道路には大使館やホテルが立ち並んで、テラスでカフェを楽しむ市民もいる。
 街の背後一帯には高い山がそびえていて、その斜面にむかって段々畑のように庶民の家屋が立ち並ぶ様は、ジャン・ギャバン主演の映画「望郷」の舞台としてあまりにも有名だ。蜘蛛の巣状に縦横無尽に続く路地裏は「カスバ」と呼ばれていて、戦時中はレジスタンスやゲリラの隠れ家としての機能も果たしていたようだ。

 私はこのアルジェで、何と!刑務所の檻に入った。…というのは、街に着いて建ち並ぶホテルを見たとたん「こりゃあ高い金額を取られそうだ」と思い、かと言ってこんな都会で野宿する場所もなさそうだと思った瞬間、脳裏をかすめたのは「刑務所に泊めてもらう事」だった。
 早速、警察署らしき大きな建物を探し出し交渉する事にした。署内では、大した事件もないのかターバンを巻いて制服を着たポリス達がヒマそうにしている。入口近くに立っていたヒゲ面の男にフランス語で話し掛けてみた。(アラブ圏の国ではアラビア語以外ではフランス語が公用語となっていた。街の標識やメニューも英語はあまり無くて殆どフランス語である)
 「ここに一晩泊めてくれ」という意味の事を言ったつもりだが、内容が常識はずれで突飛な上に私のフランス語はまったくデタラメに近いので当然通じない。しつこく食い下がる私に困った様子のヒゲ男は、ついに署の奥に居た上司らしき者を呼びに行ってくれた。私は「しめた!」と思い、おもむろに財布から札ビラを取り出して、やって来た上司の手に握らせて頼み込んだのだった。

 刑務所というのはややオーバーな表現で、簡易留置場といった感じの鉄格子だったが、初めは難色を示していた署員も私のしつこさにウンザリして、囚人も入っていない状態だったのを幸いに許可してくれた。(勿論「私はアルジェリアの人たちの暮らしを知るために旅をしている。」などともっともらしい事を言って、更に二枚ほどお札を追加した事も効果があったに違いないが)何度も署内の別室で寝ろと勧めてくれたが、私が格子の中がいいと答えると「変な奴だ」と言いたげな不思議そうな顔で了承してくれた。…確かに、私は変な奴でした。(でもホテルに泊まるよりは、はるかに安い金額だった筈だ)

 


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-11- アラブな人たち [欧州アルバイトヒッチ]



 留置場の貴重な体験をした後、別の安宿に数泊して街中を生活者の気分で楽しんだ。私は相変わらず観光名所には興味のない旅で、現地の生活を味わうのが楽しみの旅だったので、誰も行かないような所ばかりをウロウロしているとアッという間に日々が過ぎてゆく。もっと長居をしたかったが、先の予定もあるので心残りを感じながらもアルジェを後にした。
 チュニジア〜アルジェリア〜モロッコという北アフリカのルートの中で、丁度半分くらいの距離になっていた。まだまだ先は長いのだが、依然として困難なヒッチ状態は続いていた。そしてついにギブアップの時が来た。待てど暮せど一向に車が来ない。ついに十二時間も独りぽっちで待ち続けた。辺りの景色はただ暗くなってゆくばかりで、さすがの私も「もう列車に乗ろう」と決心したのだった。しかし列車に乗るにしても、街にたどり着いて駅に行かねばならない。今のこの状態からどうやって駅まで行けばいいのだろう?そんな事を考えながら寝袋に入って眠りについた。

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↑ アルジェリア/アナバの街の風景(絵はがきより転載)



 次の日もまったく車がつかまらないまま夕暮れになり一日が過ぎようとしていた。(何と!昨日から計算すると三十四時間も同じ場所に居た事になる)と、その時赤いオープンカーに乗った若者グループがやって来た。この地域では珍しくお洒落なファッションでアクティブな感じがした。
「日本人か?」と声をかけられて「そうだ、今夜泊まる所を探している」と答えると、「じゃあ、この車に乗れ」と言われた。
 車の中ではあれこれと話し掛けてくる。どうやら大の親日家らしい事は判った。カタコトの英語を話す様子をみると何人かは大学生か、それなりに教育を受けている連中らしい。車は夕闇の中を数十分程走り、見知らぬ村に入って行った。


 村に入ると数人の仲間たちが集まって来て、グループの一人が私を誇らしげに紹介し始めた。さっき知り合ったばかりなのに、どうやら「オレの日本人の友人だ」とか言っているらしい。みんな憧れと珍しさのまなざしで見つめてくる。
「おいおい、何かおねだりされるんじゃないだろうな…」あまりの友好ぶりに私の方が警戒心をもってしまうくらいだったが、実際は日本の事をとても知りたがっている純粋な若者たちであった。

 アルジェリアは当時、社会主義国であり(そのためこの国に入国するには、日本大使館でビザ申請をする必要があった)西側陣営では比較的に日本が技術提供や社会的支援をしていたため、在住の日本人商社マンも多いらしく親日家が多い。そんな事情が何となく分かってきて納得していたのだが…
「腹は減っているか?」と聞かれたので「イエス」と答えるとスパゲティのようなものとパンにスープを持ってきてくれた。食事をしながら談笑した後「今夜はここへ泊まってゆけ」と言う。勿論、願ったりで感謝を示すと、今度は「いつまでもここに暮していても構わない」と言ってきた。
「ありがとう」と答えて、寝床に与えられた小屋に向かおうとすると「明日はアジトの仲間たちにも紹介する」と言い出した。
「…アジト…って?」まさかアラブ・ゲリラじゃないだろうね〜!?一瞬にしてこの友好的な雰囲気の謎が解けた。
 わずか一ヵ月程前、イスラエルのテルアビブ空港で起こった「日本赤軍によるテロ乱射事件」、国際的には非難を受けた事件だが、当のアラブ諸国で「日本赤軍」はすっかりヒーローになっていたのだった。

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↑ アラブの若者たち。中央の男がグループのリーダーらしくカメラに向かってポーズをとっていた。



 ここ数日間の疲れを癒すかのようにぐっすり眠った私は、翌日すっかり陽の昇った頃にゆっくりと目覚めた。腹が満たされて屋根のある所で眠るという事は、こんなにも安心できて気分の良いものだったのか…。
 外の空気を吸おうと小屋を出ると、はやくも昨夜の仲間たちが集まっていて私の周りを取り囲んだ。人数は更に増えて中学生くらいの子供達までいる。色々と話が聞きたいらしく、物珍しそうな好奇の眼差しで見ている。しかし、英語は殆ど通じないので私はデタラメのフランス語を交えて身振り手振りで話すしかなかった。「日本のJUDOを教えてくれ」と言うので、高校の体育の授業で習った足払いや体落としを教えてやると、これがまた大ウケで何だか気恥ずかしいような気分だったが、とにかく信頼は得たようだった。

 これまで旅をしてきた中でも最高に親しまれて受け入れられた経験をして、改めてアラブの国における「日の丸」の偉大さを感じたものだった。それはアラブ・ゲリラを応援する日本赤軍の存在もあったが、片や社会のインフラ整備に貢献する日本の商社マンたちの存在も評価されている事も事実だった。が、それは兎も角も私としてはいくら快適とはいえ、このままここで暮している訳にもいかないので別れを告げる事にした。例の「アジトの仲間」とご対面してしまうと今後、話がどう展開するものか知れたものではなかったし、とにかく私はモロッコに行ってそこからヨーロッパに渡らなければならない。
 アルジェリアでのヒッチは距離も長くて苦しかったが心に残る旅だった。途中の町で立ち寄った居酒屋では奇妙なアラブ風ダンスを披露する女性に迫られるというエピソードなどもあって、実に楽しいアラブな人たちの生活を垣間見たような旅だった。

 


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-12- モロッコにて旅の終りを考える [欧州アルバイトヒッチ]



 モロッコは当時、ヒッチハイカーの話題の中でも「一番近いアラブの国」としてよく登場する国のひとつだった。西洋文化とは異質の文化が味わえて物価も安く、大麻(アラブでは「ハッシシ」と呼ばれていた)も簡単に手に入る。スペインの南端ジブラルタルから海峡の向こう越しに見る事が出来て、フェリーで渡ればすぐにモロッコ北端のタンジールに到着する。エキゾチックなアラブ文化を味わおうと旅行客はスペインから渡ってくるのが一般的なルートだった。
 しかし私の場合はまったく反対側のイタリアからチュニジアに渡って、おまけにヒッチハイクでやって来たものだから、お手軽な観光旅行とはひと味違ったものになっていた。「これが私の生き様だ」と言ってしまえばそれまでだが、そんな“しんどい”ヒッチの旅もこれでおしまいにしようと考え始めていた。

 思えば、日本を出てスウェーデンに着いてからというもの、国を渡る移動手段は殆どヒッチハイクだった。北欧をアルバイト探しで転々としていた頃、北欧に職がなくフランスでも期待を外されて最後の賭けでイギリスに向かった頃、そして今回のアフリカをめざしての真冬のヒッチハイク。野宿をしたり、サルベーション・アーミー(救世軍)という安宿に寝泊まりしている内に、いつの間にか宿無し無頼の放浪者になってしまっていた。

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↑ どこまでも続く広大な北アフリカの地



 モロッコに入ると少し先にヨーロッパがあるせいか、少しホッとした感情が湧いて来た。やはり自分もこれまで快適な生活に慣れ親しんで生きてきた性なのだろう、アフリカでの旅は初めはスリルがあって楽しめたが、日が重なるにつれ水準の高い都会的な暮らしを求めるようになってくる。

 最初に訪れたのはカサブランカだったが当時の私はまだ映画「カサブランカ」を観ておらず、日本で流行ったビッキー・カーという女性歌手の歌の題名からその名前を知っていただけだった。
 いくつかの町をすぎてモロッコの首都ラバトに着いた。観光客も多いらしく垢抜けした都会の一面も持っている街だった。日中はパリのシャンゼリゼを思わせるような大歩道に店を出す露店商を冷やかしながら歩いたりもした。「クスクス」というアラブ料理を注文してみたが、粟を食べているような感触で閉口した。私は、もう訪れる事もないであろう最後のアラブでの生活を味わうために三日ほどゆっくり滞在しようと考えていた。

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↑ アラブの町にはいたる所に露店商が並んでいる(カサブランカにて)

 


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-13- タイムスリップ万歳! [欧州アルバイトヒッチ]



 チュニジア、アルジェリアと他の町でも目にした光景だが、朝に夕に町中コーランが鳴り響く様が私は好きだった。街頭のスピーカーから流れる独特のアラビア語のリズムを持ったコーランは、何故か私を懐かしい時代のイメージにタイムスリップさせた。
 そう言えば、横浜からの船が初めて着いた異国の地ナホトカでも良く似たノスタルジーを感じたものだった。市民が公会堂に集まってスピーカーから流れる音楽を聴いている光景は、かつて子供の頃に見た街頭テレビに集まる大人達の風景とシンクロされるのだった。

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 私はこのアフリカでもうひとつ心に焼き付いた光景があった。それはある町から町へ移動する乗合いバスに乗った時の事。途中の田舎の停留所にバスが止まった時、小学生くらいの子供がタマゴを手に車内販売に乗り込んで来たのだった。粗末な篭に僅かのタマゴを入れて、車内の乗客達に売り歩いていた。マッチ売りの少女ならぬタマゴ売りの少年だったが、すっかり子供達が労働をしなくなった現代の日本にもかつてこの様な生活風景のあった事を思い出して、ひとりタイムスリップな気分に浸っていたのだった。

 子供は大人の背中を見て生きていた。自分達がどうやって生活の糧を得ているのか、日常の体験から知っていた。家業や労働を手伝う事で、時には対価を受け取ったりもして生活力を養っていったものだ。いつの間にか効率を最重視するようになり、生活と教育と労働がバラバラに切り離されていった。
 私はタマゴ売りの少年の背中を見て、鼻タレ小僧ではあったが大人達と対等に生活していたかつての日本の少年達を思い出していた。

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↑ ラバトの宮殿。手前にあるのは砲台。



 夕暮れのラバトの街にコーランが鳴り響いて、神聖な祈りの時間が訪れた。喧騒と静寂の混じった不思議なムードが漂う。

 夕食がてらに繁華街を彷徨ってみた。だだっ広い食堂に扉は付いておらず、鋪装のない土埃の道を行き交う人々から店の中は丸見えだ。粗末なテーブルが無造作に並べられて、天井には大きなプロペラの扇風機が回っている。昔、日本の銭湯でよく見かけたやつだ。店内には揚げパンのようなものや、コーヒーに入れる角砂糖が山と積まれている。お金を払って食べている者もいるが、タダ食いしている奴だっているかも知れないと思った。別にどうだって構わないのかも知れない。
 外にでるとすっかり暗くなっていて、繁華街の両脇には所狭しと露店が並んでいた。アルコールランプの明かりに照らし出される品々が、私には何となく怪しげなモノに映る。粗末としか言い様のないモノばかりであったが、ここの人たちにはこれで充分な生活品なのだろう。

 アラブでの買い物でつくづく思った事は、物の売り買いというものはこの国では交渉事なのだという事であった。まともに言い値でものを買っている姿を見た事はない。必ずと言ってよい程、値段の交渉をしている。売る方はなるべく高く売ろうとするし、買う方はなるべく安く買おうとする。以前に私も経験したが「高いから別の店で買う」と立ち去ろうとすると、待ったをかけてイッキに半額にされたものだ。「そんなら初めから言えよ〜」と思うのは私だけで、連中にしてみたら「こんなところで如何か知らん?」といった感じなのだろう。値下げにしてもかなりアバウトなどんぶり勘定の「原価を割らなきゃいいや」という様子で、経費や利益率なんてまったく関係ない世界のようだ。そうやって眺めているとズルイんだか、お人好しなんだか分からなくなってきた。「買わない」とさえ言えば値段を引くのは見え見えなんだもの…。

 私は幼い頃に商店街で暮していたので、この活気には懐かしさを感じていた。裸電球のぶら下がった売台には野菜や果物がそのままの姿で山と積まれ、ハエ取り紙の下では店員が魚をぶら下げて大声で客引きをやっている光景が私の日常だった。蛍光灯のまだ少ない商店街は、辺り一面が橙色の活気に満ちていたものだった。
 両側の店々の間を所狭しと流れてゆく割烹着に買い物篭を下げた夕暮れの風景が、このラバトの闇と喧噪の中でセピア色に甦っていた。





 さらばアフリカ、アラブの人たち。この北アフリカの旅ではたくさんのエキゾチックな体験をした。土埃のヒッチハイクは何故か私に懐かしい暮らしの風景を振返らせてくれた。金銭的な富みを越えた「バイタリティ」というものが人間に幸せをもたらすものである事も、僅かながら教えてくれたようだ。
 夕暮れのタンジールの港。目の前には海峡を挟んでヨーロッパの地、スペインが見えている。かがり火を焚いた薄暗い巡航船には、今日も欧州に出稼ぎに行くアラブの庶民たちでいっぱいだ。私も連中に混じって、再びアルバイト生活を始めるために海峡を越える。

 勝手知ったるヨーロッパの地に戻る事に、ほっとした気持ちと少しの淋しさがあった。アフリカでの生活は毎日が旅の連続で、日々「生きている事」だけで充分だった。人生を放浪している事が、生きている事の証として納得出来る時間でもあった。
 しかしヨーロッパに戻ればそんな訳にはいかない。「何をしにわざわざ日本を離れて来たのか?」その意義を見い出さねばならないという不自由なテーマを再び背負い始める事になる。そんな憂鬱が心のどこかにあったのかも知れない。

 


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エピローグ/放浪の終わり [欧州アルバイトヒッチ]



 スペインに渡ってからも私の放浪は続いた。
 スペインでは2カ月も滞在して、国内を鉄道で廻ったり、マドリッドのペンションに暮しながら毎日「プラド美術館」に絵画鑑賞に通うというような生活をしたが、その頃から少しづつ旅の終りを感じ始めてきたのだった。

 マドリッドでの生活は、絵画に対する目を養ったばかりでなく、読書をしたりして様々な思索の時間でもあった。たまたまペンションの隣人であった雑誌「平凡パンチ」のジャーナリストと色々な話題で語らいもして、その語らいの中から、後に日本で流行語となった「Uターン現象」の言葉の元となる“原点回帰”のコンセプトが生まれたのだった。
 小田実氏の「何でもみてやろう」や五木寛之氏の「青年は荒野をめざす」に煽られて日本を出て来た若者が海外には大勢いたが、果たしてそこで夢とロマンに出会ったのだろうか?放浪の果てに得た答は何だったのだろうか?心地よいアルコールと紫煙の幻想の中で、私が口ずさんだ唄は「北帰行」だった。

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 スペインから再び大好きなパリを訪れ、ドイツ、スイスを越えてオランダのアムステルダムにも数週間滞在した。滞在地からノルウェーやスイスなど数カ国のユースホステルに求職の手紙を書くなどして仕事探しをしながら北に向かい、ついには北欧フィンランドにたどり着く事となった。

 少しづつ旅の終りを予感していた私は、帰国準備にはソビエトのビザ申請やチケットの購入などで数日間かかるので、その間最後の地ヘルシンキで楽しもうと考え、オリンピック競技場近くのユースホステルに泊まりながら、滞在客の日本人と連日ディスコにくり出していた。
 昼間は喫茶店で現地に暮らす日本人たちとダベり、夕暮れになるとディスコにくり出す。何日かすると顔見知りも出来てきて、ヘルシンキの女の子とも親しくなってきた。もう少しここで暮らしてみたいなあと思いつつも帰国の準備に取り掛かっていた時、とんでもない事件が起こったのだった。

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 ソビエト経由で帰国するためのチケット代として用意してあった現金が、財布の入ったショルダーバッグごと何者かにそっくり盗まれてしまったのだ! まったくの無一文になった私は、日本に帰れないどころか、明日の飯代さえも無い状態になってしまった。(後に現地の警察からの連絡で、郊外の電話ボックスに捨てられていたパスポートだけが届けられた。しかしお金よりも大切だった、これまでのヒッチハイクの記録日記や撮りためてきた写真のすべてが失われた事がショックだった…このエッセイの添付写真が極めて少ないのは、実はそれが理由なのです)

 その後、偶然にも親切な女の子に出会って、そこに居候をしながら食事も与えてもらえた事は幸運だった。田舎の実家にも連れて行ってもらい、そこでは彼女の両親や姉たちと共に家族同様の待遇を受けた。私のこれまでの旅の中で、一番「普通の生活」を感じられた時間だったかも知れない。フィンランド人の家族と共に暮らした約一ヵ月の生活は、私の生活観や価値観そして美意識にも多くの影響を与える事となった。

 世話になった田舎暮らしに感謝して、アルバイトを見つけて暮らすためにヘルシンキの街に出て来た。結局、日本に帰る事が出来なくなってこの街でアルバイト生活を始めた私は、その後約一年間ヨーロッパでの生活を延長する事となったが、この時点で私の“放浪の旅”は終止符を打ったような気がする。海外に脱日常を求めた私が、思索と放浪の旅の果てにたどり着いたものは「原点回帰」であり、それは日々営まれる生活の事であった。



<完>





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別添/旅の絵葉書 [欧州アルバイトヒッチ]







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別添/放浪のスケッチブック [欧州アルバイトヒッチ]







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