SSブログ

還暦の猫 その8「猫の額を思索する」 [還暦猫ミカン]

 最近ふと思ったことがある。2,3年前頃は猫の身になって猫の視点で考える姿勢があったが、近頃の私はどうやら自分のモノサシで判断しているような気がする。猫の眼で見て猫の感じたままを猫の価値観で捉えてみたいのだが、それはなかなか難しそうだ。心の余裕が少し無くなった様にも思える。心の余裕が無いと他者の身になって考える事が難しい様に、猫の気持ちも推し量れなくなる様だ。自分の精神状態のバロメーターかも知れない。

 改めて気を取り直して我が愛猫ミカンを顧みてみると、還暦猫は還暦猫らしく若かった頃よりも物事に対して深く熟考するようになった様にも思えるところがある。考えの浅はかさを言い表す言葉に「猫の額」という表現があるが(確かに猫の額は小さくて脳ミソも小さそうではあるけれど)果たしてそれほど考えのない生きものなのかと言うと疑問がある。
 我々人間のする事をじっと観察している時もあるし、食事の摂り方もその時々で対応を変えて学習能力もありそうな感じがする。決して考えのない単細胞には思えない。最近の感情的で思考が浅く簡単に殺人を犯してしまう人間どもの方がずっと単細胞に見える程である。

階段のミカン_B.jpg

 ところで、一般的に額の広さと頭の良さは比例すると言われているが本当にそうだろうか?そもそも頭の良さの基準というものを考え直してみたい。
 「頭が良い」という言葉には様々な意味が含まれていて、例えば物分かりの良い“利口”“理解”という意味もあれば、物覚えが良い“記憶力”や推理、洞察といった“聡明”という意味もある。だから頭が良いなどという言葉は人間の創った形容詞の様なもので何ら自然界や世界を語るものでは無いのだ。
 だから彼等猫族には頭が良いとか悪いとかいう区別・差別はない。能力に応じた“生き方の向き不向き”はあるけれど、それを人間界の様に不公平だとか不平等だとか訴える事はない。そもそもそんな事を何処の誰に訴えるというのだろうか?誇り高い猫族は自分の生き方の決定権を他のものに預けたりせずに唯我独尊で生きている。それを我々人間は“知恵のない馬鹿な生き方”と言うだろうか?そう言う人間こそ知識的階級に支配され従属する“気骨の抜けた生きもの”に成り下がってはいないだろうか?

階段のミカン_C.jpg

 「猫の額は小さい」と言われて結構、それがどうしたという声が聞こえて来そうだ。人間に限らず生きものは全て肉体と魂から成り立っていて、そのバランスの中で生きている。互いの足りないところを“補い合って存在する”ことが生きるという事の本当の意味なのだ。猫の世界でも還暦を過ぎた猫は特に調和の中で自覚しながら生きているようだ。それまでの高所に登って高いところから獲物を狙う生き方から、身近な餌を自分に見合った量だけリスクを冒さず手に入れて命を繋ぐ処世に変化した感じである。
 小さな額を大きく見せようなどとは決してしない、キャパを越えて過剰に脳力を詰め込もうとはしない。そんな“額の小さな生き方”が還暦猫ミカンの世界を憤ることなく成り立たせているようだ。

 

nice!(14)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 14

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。