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自分の中の「負」を見つめる [還暦の荒野をめざして]

言葉に限らないが、ひとつの物事でさえも複数の側面があり、どの角度から見るかによって意見や評価は様々である。だからネットで不確定多数に向かって何かを語るときは“誤解される事を前提”に語らねばならないだろう。しかし、かと言ってどうせ分からないからと投げやりな気持ちで意見を言っていては聞く方に対して失礼にあたり相手を馬鹿にしている事になる。伝わりにくい事を覚悟でそれでも一心に語る…まぁそれが私見を語る者の本来の姿なのだろう。

と、長い前置きをした後で唐突に自分の中にある「負」の部分にスポットを当てる。
自分の中にある「負」を発見するという事はどういう事かと云えば、何か不安や不満に思っている事があればそれは自分自身に原因があるという事を自覚することだ。悪しきことの原因は自分の中にあるという事で、これを自覚していれば間違った道を進むこと無く模索でいたずらに時間を取らない。「負」とは“負う”ことであり、それは聖書で云うところの十字架の様なものだ。逃れたいけれど逃れられない宿命の様なものと言い換えることも出来る。そしてそれの持つもうひとつの側面は「罪」の部分なのである。
私たちは生まれながらにして“罪悪感となる要素”を持っている。キリスト教で云うところの“原罪意識”というもので、西洋文化の根底に流れるもののひとつである。これが日本の文化では“恥を知る”ということになって、私たちの社会の文化でもあった。恥を知ることと“卑下する”ことは違っていて、卑屈な者は「恥」を誤魔化そうとして虚勢を張るというのが日本人の中によく見られる姿でもある。
強がらず卑下もせず、卑屈にならず堂々と自分の思う処を語るというのは意外と難しいものであり、先に云った誤解される事を恐れず敢えて誤解も曲解も承知の上で語るというからには何かそこに信念のようなものが無ければ出来ることではない。昨今、SNSやバーチャル・コミュニティに於いてネットの威を借りて暴言を吐く“似非評論家”が多いが、これも自分の「負」を自覚出来ていないための愚かしさなのだろう。

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当「還暦デビュー・ブログ」に於いては基本的に自分と同年代の人たちを想定して意見を語っていて、若い人たちに対しては私はもっと寛容なんですが(苦笑)長く生きて来て歳をとって積もり積もった垢を晒しているわけなんです。これは謝罪でも何でもなく、ただ私は若い世代に対しては何のサジェスチョンもするつもりは無いという事なんです。私が現役だった頃にある人から教わった事があります。「人に対して何かを指導しようなんて思ってはいけない。自分の子供に対しても然り。指導するのではなくて、生の情報を提供して後は相手の判断に委ねるというのが正しい在り方なのだ」
若い人たちに対してはそう在りたいと思う。自分の背負っている「罪」の部分は飽くまでも自分と同世代の中で取り組んでゆくべきでしょう。

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いっぷく

>卑屈な者は「恥」を誤魔化そうとして虚勢を張る
私もひとさまをとやかくいうご意見番になるつもりもないのですが、つい厳しく書いてしまうのが、いつも自分を正当化する「自己愛」な人です。
自分は無謬でも万能でもない、間違い得るしょせん78億人のうちの1人なのだ、という見定めは忘れないようにしています。
by いっぷく (2020-06-03 05:15) 

扶侶夢

>いっぷくさん、ご来訪&コメント有難うございます。
自分を正当化することは生きものの本質ですから是非もないですね(苦笑)
つい厳しく書いてしまうと思うのはご本人の感じ方で、客観性は必要ですがそれも一種の書き方の癖のようなものですね。厳しさと甘さとのバランスは難しいけれど必要だとは思います、塩と砂糖の調合と同じで。
by 扶侶夢 (2020-06-03 09:48) 

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